第96回全国高等学校野球選手権大会は大阪桐蔭の優勝で幕を閉じた。県勢59年ぶりの決勝戦進出となった三重高校は惜しくも敗れたが、躍進のもととなったのは、60歳の中村好治監督の手腕だ。スポットライトを当てた。(取材・文=フリーライター・神田憲行)
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三重高校は5月の春季東海地区大会で優勝していたものの、昨夏も今春の甲子園も初戦で敗退しており、率直なところ大会前は優勝候補の下馬評には登っていなかった。それが決勝戦にコマを進めたのは、主将の長野勇斗が、
「三重は1勝がこれまで遠かったけれど、1勝してからは選手が成長して波に乗れました」
と振り返る通り、中村のもと大会中に選手のポテンシャルが開花したからである。中村は今年4月に同校の監督に就任するや、打撃練習で審判を付けてストライクとボールの見極めを選手に徹底させるなど、練習内容を一変した。準決勝の日本文理戦では、バッテリーの配球を読んで作戦を次々と的中させ、抜擢した選手が活躍するなど采配も冴えた。
選手にも愛情をたっぷり注いだ。毎日打撃投手を買って出て、エース今井重太朗の身体を自らマッサージしていた。
「打撃投手は監督に就任されてから毎日ですよ。ランニングも一緒にしています。もうそんな若い歳とはいえないのに、本当に頭が下がりますよ」(中澤良文部長)
取材をしていて、私は「ああ、変わっていないな」と12年前のエピソードを想い出していた。2002年の第84回大会、中村は日章学園(宮崎代表)の監督として甲子園に出場した。日章学園には瀬間仲ノルベルトというブラジルからの留学生がいた。中村は、言葉もわからず野球部の独特な習慣に戸惑い、ときには先輩と喧嘩になりそうな瀬間仲の親代わりとなった。当時高校3年生だった瀬間仲は、
「打撃練習では僕の手本で打って見せてくれたら、おじさんなのに僕より遠くに飛ばすからびっくりしました。最初は理由がわからなかったけれど、だんだん肘の位置がポイントだとわかりました。中村先生は僕の日本のお父さんです」
来日したばかりのこと、瀬間仲が一度、中村を怒らせたことがある。相手に死球を与えたのに、一塁手の瀬間仲が打者走者に帽子を取って礼をしなかったからだ。ブラジルにそういう習慣はなかった。
「僕が日本の高校野球で学んだいちばんのことです。ブラジルの子どもたちも絶対そうした方がいい」
どうして細やかにそこまで選手に気配りするのか。原点は中村の母校・浪商高校時代にあった。
「私のころの浪商は野球部員が1学年で180人くらいいたんですよ。もう誰が誰やらわからない。そんなときに監督さんに少しでも声を掛けてもらったら、ものすごい嬉しかった。だから自分も選手に気配りしてやりたい。三重の野球部員は100人いるんですが、毎日全員に声を掛けています」
中村は苦労人だ。
「私ね、会社が6つ変わっているんですよ」
と笑う。社会人野球の選手・監督として3つ、日章学園の監督、三重中京大学の監督、そして現在。三重中京大では則本昴大投手を育てたが、学校が閉校になった。住む場所だけでも神戸、宮崎、三重など転々としている。ひとつの学校にどっしり腰を落ち着けた「大監督」ではない。
「いろんな人との出会いもあり、苦労もありました。でもいろんな経験を積んだことで、指導の引き出しはたくさんできましたよ」