9月17日、ドキュメンタリー番組『石橋貴明のスポーツ伝説…光と影』(TBS系)が放送された。番組では、1988年7月に札幌・円山球場で激突した元巨人・吉村禎章氏(51)と栄村忠広氏(53)にスポットを当てた。
当時、巨人の3番打者として活躍し、将来が有望視されていた吉村は、この激突で左膝じん帯断裂に重傷を負い、選手生命の危機に陥った。しかし、懸命のリハビリで復活を果たし、1998年まで現役生活をまっとうした。
一方の栄村は、翌年から一軍出場なし。1990年オフにオリックスへ無償トレードで移籍するも、1年で解雇された。あらためて、栄村のプロ野球人生を振り返ってみよう。
栄村は21歳の1982年秋、日本専売公社鹿児島地方局からドラフト外で巨人に入団。1年目の年俸は240万円だった。ファームでは3年目までは打率2割前後と苦しんだが、4年目の1986年に初めて3割到達。秋のアリゾナ教育リーグでも3割をマークし、飛躍が期待された。翌年も一軍出場こそなかったが、イースタン・リーグで盗塁王を獲得し、2年連続で打率3割を達成していた。そして、1988年に一軍初出場を果たす。スポーツライターが話す。
「1988年は東京ドーム元年。今でこそ狭い球場の代名詞になっていますが、当時は日本でいちばん広い本拠地球場だった。そのなかで、俊足強肩の栄村が一軍に抜擢されたわけです。しかも、前年限りでセ・リーグ盗塁記録を持つ“青い稲妻”の松本匡史が引退。当時の巨人には、ほかに足の速い選手がおらず、いわば栄村は“ドームの申し子”として活躍を期待されていました」
たしかに、当時の『プロ野球選手名鑑』(日刊スポーツグラフ特別号)の寸評欄を見ると、後楽園球場最終年の1987年版には「ポスト松本一番手。ファーム一の強肩で守備範囲広い」、東京ドーム元年の1988年版には「ドーム球場時代の到来で強肩、俊足をアピールする好機。ポスト松本の期待大」と書かれている。
激突のあった1988年、栄村はチーム一の11盗塁をマーク。東京ドームの公式戦で初めて盗塁した選手でもあり、歴史にその名を刻んでいる。だが、翌年は同じく俊足の緒方耕一が台頭し、栄村の存在感は薄れていった。