子どもの運動能力が二極化しているという調査結果が出た。危機感を募らせる意見もあるが、そもそも学校の体育とはどうあるべきだろうか。コラムニストのオバタカズユキ氏が考える。
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一番好きな科目は「体育!」と言う子もいれば、体育は「1番嫌い……」と言う子もいる。べつに「体育」を「数学」や「音楽」に置きかえてもいいのだが、人ぞれぞれに向き不向きがあるのは当然だ。
しかし、文部科学省の「体力・運動能力調査」の結果を報じた朝日新聞によると、ここ15年ほどは<運動能力が高い子が伸びる一方、運動をしない層が落ちこむ「二極化」が進んでいるという>。そして、調査を担当した順天堂大大学院の内村久士教授に、こう語らせている。
<80年ごろまでの学校は、運動の苦手な子に歯を食いしばって頑張らせる「根性型」の指導をしたが、徐々に「苦しければやらなくていい」となった。ここで運動の楽しさを伝えるべきところを、結果的に全く運動しない層が現れ、平均を押し下げた>
なるほど、それはそうだろう。「苦しければやらなくていい」のなら、運動の苦手な子はなるべく体を動かさない学校生活を送ろうとする。運動不足は健康によくないと教えられたとしても、健康を意識するのは中年以降だ。子供は自分の快不快に忠実だから、不快な運動をやらない子は徹底してやらなくなる。そして、「体力・運動能力」の全体値をぐいと押し下げる。
その一方で、地域のクラブや場合によっては業者に指導料を払って、特定のスポーツに励む子供も増えている。町中の公園や空き地で遊びまわる子供を見かけることが減ったのは、なにも進学塾やゲーム機、あるいは少子化ばかりのせいじゃない。水泳、サッカー、野球、バレイ、テニスなどの練習で忙しい子がとても多いのだ。今の子供らだって、缶蹴りやハンドベースをやらせりゃそれなりに盛り上げるのだが、実際は盛り上がるに必要な参加人数を集めることが難しい。みんな何かしらの「習い事」の予定を入れているためだ。
結果、「体力・運動能力」の二極化が進む。学校の体育もゆるくすりゃ、それは当然、二極化する。他の調査によると、子供のケガも二極化しているそうだ。スポーツに励む子は体の特定箇所のオーバーユース(使い過ぎ)で、疲労骨折などを起こす例が増えている。逆に、運動をまったくしない子がただ単に手をついただけで骨折するようなケースも目立っているらしい。
あまりに極端だ。そう、極端はいけない。けれども、近年の日本人がもっとも支持している「個性を伸ばす」という教育観は、そういう面も有しているわけだ。
好きなこと興味があること得意なことに没頭すれば、嫌いなこと興味のないこと苦手なことには手をつけなくなる。体育が嫌いな子に<運動の楽しさを伝える>だなんていうのは至難の業で、骨折を減らしたければ<運動の苦手な子に歯を食いしばって頑張らせる>時間も必要なのである。
じゃあ、1980年以前の「根性型」の体育教育を復活させるべきなのか。私は違うと思う。個人的な体験からそう言い切りたい。
入学は1970年だったか。私が通っていた千葉県八千代市の市立小学校は、体育学校として知られたところだった。立位からのブリッジを1分間に10回は繰り返せて当たり前、縄跳びは100回、1000回連続できて当たり前、鉄棒で血豆を潰した回数だけ頑張りが認められ、高学年ともなれば大車輪をこなせる子がクラスに2~3人いるのが普通という、今思えばサーカス団員養成所みたいな学校だった。
ふだんの時間割にある体育の授業が厳しいのはもちろんのこと、2時間目と3時間目の間には15分間の「業間体育」が設けられ、全校児童が一斉に運動場まで駆けつけて、ダッシュとかブリッジとか逆立ちなどに取り組んだ。昼休みも私語厳禁の昼食を済ませたら、運動場にゴー。アスレッチック公園なみに揃えられた遊具で楽しむもよし、100メートル競走をするもよし、ドッヂボールで戦うもよし、強制的に何かをやらされるわけではなかったが、体を動かさないと叱られた。体操服にゼッケンが縫いつけられおり、ちゃんと体を動かしていない子は「5年1組12番、砂場で座り込まない」などと校内放送を通して注意された。
1年に1度、全国から体育教師が1000人以上見学に来る、体育発表会も思い出深い。いろんな競技の成果を披露したのだけれど、メインはマスゲームだ。手足の動きのみならず、目線の角度までビッシッと合せた集団行動。1人当たりの立ち位置が1センチずれていても成立しない精緻な幾何学模様をみんなで描く。成功するとけっこう気持ちいいものなのだが、その日のために放課後の練習が毎日続いた。まあ、言ってみれば、北朝鮮のそれと大きく変わりはしなかった。