歌舞伎役者の家に生まれた俳優の中村嘉葎雄(かつお)は、高校生のとき映画デビューしてもしばらく、歌舞伎の芝居から抜け出せずにいた。映画の先生である伴淳三郎と、天気を与えてくれた木下惠介監督、そのとき共演した沢村貞子との思い出について中村が語る言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる連載『役者は言葉でてきている』からお届けする。
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中村嘉葎雄は歌舞伎から映画界に転身、1955年に松竹『振袖剣法』でデビューしている。当時、兄の中村錦之助(後の萬屋錦之介)は東映の人気スターになっており、松竹にはその後を追おうという狙いがあった。
「松竹も相当にお金をかけたらしいです。でも、錦之助みたいなスターにはなれないと思った。彼はコウノトリですけど、僕は低いところを飛ぶ鳥でいい、と。母親には『なんであなたは』と言われましたが、そういう素質はないですから。ただ、低いところを飛ぶにしてもそのことを認めてもらわないといけない。
僕の映画の先生は伴淳三郎さんです。当時は控え室があまりなくて、僕はベニヤ板で仕切った部屋にいたんですけど、伴さんが『僕の部屋においでよ』と誘ってくださって。その時、『嘉葎雄ちゃん、いろんな角度から写真を撮ってもらって、笑い方とかを勉強した方がいいよ』と。そのおかげで『撮られる』ということに段々と慣れました。
ただ、どうしても今までの歌舞伎でついた癖が抜けなくて、セリフが七五調になってしまう。これを直すために、いろいろなラジオドラマに出ました。そうすると、セリフも徐々に普通になっていくんですよ」
映画俳優として転機となったのは1956年、松竹のエースだった木下惠介監督『太陽とバラ』に出演したことだった。
「あれで木下先生と出会って、『ああ、映画って楽しいな』と味わうことができました。『自然にやりなさい』という感じでした。もう、刀とかそういったファッションを身に付けてないわけですからね。例えばアップを撮っていても、こちらは歌舞伎の癖でつい目を見開いてしまうんですが、木下監督は『そこで瞬きして』と言うんです。現代劇では何も考えないで自然にやっていい、と教わりました」