歌舞伎の家の出身である俳優の中村嘉葎雄(かつお)は、高校時代に歌舞伎から映画の世界へ転身、日本映画の黄金期を支え、映画、ドラマ、演劇など他分野で現在も活躍している。芝居をするなかで出会った小説家の水上勉や、映画監督の大島渚との思い出について中村が語る言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる連載『役者は言葉でてきている』からお届けする。
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中村嘉葎雄は舞台『湖の琴』に出演したのを契機に、原作者である小説家・水上勉の知遇を得ることになる。
「『越前竹人形』の舞台をやった時は、いくら本を読んでも私には水上文学というものが分かりませんでした。それで成城の水上先生のお宅へうかがうことにしたんです。その時、私の演じた喜助の笑い方とか歩き方とか、いろいろとうかがってレポート用紙に書き込んでいるうちに夜が明けてしまいました。
劇中で特に分からなかったのは『蜘蛛の哲学』を語るところです。蜘蛛というのは、子供を産むとどこかへいなくなってしまう。『蜘蛛の親は子を放って、どこへ行きますやらって、学校の先生に聞いても、お父に聞いても答えてくれない』という喜助のセリフがあるのですが、『これをヒロインの玉枝が聞いて《気持ち悪い》と思わなきゃダメなんだ』と先生はおっしゃる。
しかも『かといって、気持ち悪く言おうとしてもダメだ』と。それで原作を読み直して、自分で考えて、一生懸命やりました。
レポートには、作品の本質に関わる先生の教えをいろいろと書き込みました。後に再演した時、水上先生は台本が気に入らなかったのですが、その時に稽古場で『嘉葎雄君、ウチに来た時にレポートを取っていたね。まだ持ってる?』と聞いてこられまして。お見せしたところ、『これ、借りるよ』と持って帰られた。しばらくしたら納得いく台本が書けたそうです」
1960年代半ば、東映を離れた中村嘉葎雄はメジャー作品に留まることなく、大島渚監督作品など前衛的な独立系の映画にも出演していった。