アイドル戦国時代といわれて数年が経つ。そのなかでP.K.ディックや林芙美子を愛読書として挙げる西田藍は、文学アイドル、SFアイドルと呼ばれている。エキゾチックな美少女然としたルックスから、当然、子どものころからアイドルになりたいと願い続けてきたのかと思えば、そもそも人間の偶像にまったく興味がなかったという。その西田の気持ちを変えたモーニング娘。のコンサートへ至る道を振り返った。
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――表紙を飾った『SFマガジン』2014年10月号は品切れだそうですね。
西田藍(以下、西田):ありがたいですね。売れなかったら私の責任だと思っていたので、それを回避できてよかったです。女性で私よりSFに詳しい方はもっといらっしゃいますが、P.K.ディックは大好きな作家ですし、その特集号ならと思って表紙をお引き受けしました。私が表紙になったりすることがSFへ興味をひく起爆剤になればいいですね。
――もともとアイドルや芸能人になりたい子どもだったのですか?
西田:興味ありませんでした。小学生のころ、同級生たちはモーニング娘。のミニモニ。に夢中でしたが、子どもっぽい感じが私は好きになれませんでした。たぶんそのころだったと思うのですが、地元のアイドルグループに誘われて、その事務所へ行ったことがあります。でも、夏休みは毎日練習ですと聞いて「絶対にイヤ」と即答したんです。
――それでも中学生くらいになると周囲で芸能人の話題が増えますよね。
西田:本とアニメのキャラクターにばかり夢中で人間に興味が向きませんでした。テレビもそんなに熱心に見ず、女の子向けの雑誌も買わなかったからか芸能人全般をよく知りませんでした。14歳ぐらいになってやっと、グラビア等の文化に興味を持ち始めました。
――とはいえ、アイドルになりたいという同級生もいたのでは?
西田:福岡だけなのかもしれないですが、どのクラスにも2、3人は地元で芸能活動をしている人がいたんですよ。仲が良い友だちを通じてAKBのオーディションに合格したばかりの大家志津香ちゃんを紹介されたので、志津香ちゃんのことはずっと応援しています。アイドルにかかわる身近な出来事はありましたが、自分のこととしては考えませんでした。
――地元でしていたモデル仕事のなかにはアイドルのようなものもあったのでは?
西田:地デジ普及のCMでPerfumeみたいに踊ったのが、ミスiDになる前では唯一のアイドルっぽい仕事ですね。親のすすめで中学1年のときからモデル事務所に在籍していましたが、自分がやりたくて始めたんじゃないと最初は思っていました。事務所で面接の練習をしたとき「作家になりたいです」なんて受け答えして、先輩に呆れられていたくらいです。
それでも、自信がなかった自分のルックスが売り物として大人に評価され自己肯定感が高まり、すごく良い経験になりました。地道にモデルを頑張ろうと思っていましたが、あと一歩踏み出す勇気が持てなかった。
――モデルを続けたのは、目立つことが好きだったのでしょうか?
西田:もともと人前に出るのは嫌いではないです。あんまり深く考えず前へ出るタイプでした。でも、高校1年のゴールデンウィーク明けに学校へ行けなくなり、保健室登校を交えながら頑張ったんですが、留年が確定して12月に中退したことで変わりました。私はダメだという思いが強くなったんです。
学校で嫌なことは何も起きなかったのに、全日制の高校が合わなかった。無理に行くと頭痛がひどかったし、通学路でうずくまって動けなくなり同じところをぐるぐる歩いたり。すごく仲が良い友だちとクラスが一緒だったのに、それも学校へ行く理由にならなかった。高校にちゃんと行けなかったことは、今も深い影を落としていると思います。