阪神淡路大震災から20年。いまだ乗り越えられない壁について、フリーライター・神田憲行氏が考える。
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日経新聞の名物企画「私の履歴書」で、元日から王貞治さんの連載が始まった。まだ序盤だが、王さんの父・仕福さんの生き方に早くも胸が詰まる思いがする。
仕福さんは中国浙江省の出身で、20歳のころ、先に来日していた親類を頼って日本に出稼ぎに来た。最初は工場勤めだったが、料理を覚え、墨田区で中華料理屋を営むようになる。その仕福さんから王さんがとにかく叩き込まれた教えが、
「日本に来て、日本に生かされている」
ということだったという。
仕福さんは閉店したあとでも近所の人が「なにか食べさせて」と来れば、再び火をおこしてラーメンを提供した。町内でいち早くカラーテレビを購入すると、プロレス中継のときは店を開放して近所の人にも見せた。そうした近所づきあいのおかげで、王さんは子どものころ一度も「中国人の子ども」とイジメられたことはなかったそうだ。
早稲田実業に進み、初めてのデビュー戦で王さんは完封勝利を挙げた。ベンチ前でグラブを放り投げて喜ぶと、兄の鉄城さんから
「おまえは相手の気持ちを考えたことがあるのか」
ととがめられた。王さんはいう。
《そこには父の教えがあった。「日本に来て、日本に生かされている」という父は偉ぶったりおごったりしているして反発を買うことを戒めていた。この一件以来、私は感情を出さないようになった。(中略)プロとしては面白みに欠けたかもしれない。それには王家の生き方も関係している》
ハンク・アーロンの持つ本塁打世界記録越えが目前に迫ると、王さんの自宅には朝からサインを求める小学生でごったがえしたという。王さんは訪れた子どもたち全員にサインをしてから球場に出かけた。世界記録の756号を打ったときは、一瞬バンザイをしただけで、すぐ淡々とホームベースを回った。
《すぐ相手の鈴木康二朗投手のことが気になった。一塁をまわったところでマウンドをみやった》
周囲と折り合いを付けて、波風立てぬように生きる仕福さんの教えは、「世界の王」となった瞬間でも、王さんの胸から抜けることなかった。
話は20年前の1995年1月17日に飛ぶ。
阪神淡路大震災を私は奈良の実家で経験した。早朝、突き上げる揺れに寝ている足が頭より高く上がったのを覚えている。
約1か月後、親しくさせていただいている大阪外語大学のベトナム語科教授の提案で、神戸市長田区の公園に避難しているベトナム難民の方たちへの炊き出しボランティアに行った。電車とバスを乗り継いで梅田から3、4時間かかったと思う。
公園の真ん中に鍋を揃えて、教授はカインチュアなどベトナム料理を作ってベトナム人被災者たちに振る舞った。料理ができない私は支援物資の配給の仕事を手伝った。当時ニュースでベトナム難民被災者の存在が繰り返し報道されたこともあり、全国からベトナム人宛の支援物資が届けられていた。
同じ公園には日本人被災者も多数いて、彼らへの支援物資の配給は公園にテントを張って行われていた。テント内のテーブルに支援物資の段ボールが置かれ、それを被災者の方たちがカフェテリア方式で好きなものを取って帰る。
ところがベトナム人被災者向けのそれは違っていた。
公園の隅に外から見えないよう壁で仕切られた一角があり、そこで支援物資を分けた。地面に「グエン」とかベトナム人家族の名前が書かれた段ボールを置き、そこに支援物資を適当に投げて込んでいく。家族構成とか気にしなくてよく、子どものいない家庭に子ども用の靴下が届けられても、あとで彼ら同士で融通しあうということだった。そうやって仕分けられた段ボールは夜中を待って各家族に引き取られていった。