1月17日で20年となる阪神・淡路大震災の被災地は、世界の災害史の中でも驚くべき早さで復興を遂げた。一方、発生から4年が経とうとする東日本大震災の被災地では、いまだ瓦礫や廃屋までが残り、復興事業が始まった地域は広大な更地が広がるばかりで、街並みどころか住人の姿さえも元に戻っていない。この復興のスピードの差はどこからくるのか。阪神大震災と東日本大震災の「4年後」を比較検証する。(週刊ポスト1月30日号より記事全文を掲載)
■「他に例を見ない早さ」
神戸市広報課職員として阪神大震災の復興の過程をつぶさに見てきた松崎太亮氏は、当時をこう振り返る。
「自宅で被災しましたが、私は神戸市の広報テレビ番組を担当していたので、ビデオカメラを回しながら被害の大きな場所を走り回りました。その後の復興は急ピッチで、毎日凄まじい勢いで復旧工事をしていたのを覚えています。3・11後の東北も見てきましたが、東北は復興の格差が大きく、4年経った今も復興計画が暗礁に乗り上げているところもある。阪神に比べて大きく遅れている印象です」
阪神大震災は淡路島北部を震源とする直下型地震で、マグニチュードは7.3。神戸、芦屋、西宮などで震度7を記録した。死者は6434人、住宅被害53万8767棟、避難者は31万6678人。被害額は9兆9268億円にのぼった。
しかし、松崎氏のいうようにインフラの復旧は迅速だった。電話は震災翌日に交換設備の復旧を完了し、1月末には倒壊家屋を除いて加入者の回線も復旧。電気は震災6日後に、水道も2月末には仮復旧した。ガスはやや遅れたものの4月11日には復旧していた。
「神戸は政令市であり、交通の大動脈もあったので、とくに鉄道や道路など交通網は他に例を見ないほど早かった。被災者のメンタル面でのケアなどの対応には課題が残りますが、ハード面の復旧はスムーズだったと思います」(松崎氏)
阪神大震災の被災地の写真を見ると、1年後には街並みがかなり元に戻っているのがわかる。それに比べて、東日本大震災の被災地の光景を見渡せば、発生から4年経った今なお復興が進んでいない。
宮城県石巻市雄勝(おがつ)町の雄勝硯(すずり)生産販売協同組合職員・高橋頼雄氏は、震災当時、地元名産の硯店を経営していた。母親と2人暮らしで共に高台に避難して無事だったが、自宅は津波で流された。
「山で薪を燃やして暖をとりながら一晩過ごしました。それから山を越えて役所の建物に移動し、避難所に移動できたのは3日目の夕方。仮設住宅に入れたのは7月後半でした。雄勝町の復興はほとんど手つかずの状態で、津波被害にあった場所はただの更地。役所の周辺にポツポツと仮設の商店街ができているだけです。仮設住宅もあちこちに不具合が出始めていて、そう長くはもたない」(高橋氏)
だが、仮設住宅を出られる目処はまったく立っていない。役所と住民による「復興まちづくり協議会」が立ち上げられたが、高台移転や防潮堤建設をめぐって意見が真っ二つに割れている。
「高さ9.7メートルの防潮堤を建設するという話ですが、完成までに何十年かかるんですか? そもそも三陸沿岸はリアス海岸の観光で生きていくしかないのに、防潮堤を造ってしまったら何もできませんよ」(高橋氏)
その防潮堤建設は安倍政権の復興利権の象徴といわれている。もちろん阪神大震災と東日本大震災は災害の種類も規模も違うため、単純に比較はできない。
阪神は被害が比較的狭い地域に集中し、ほとんどが住宅倒壊と火災によるものだった。一方、東日本は宮城県沖を震源とするプレート境界型地震で、津波が広範囲にわたる甚大な被害をもたらした。原発事故による影響も阪神にはなかった。死者・行方不明者合わせて1万8483人、被害額は17兆円と規模も大きい。
2つの震災の復興を研究する塩崎賢明・立命館大学教授はこう指摘する。
「阪神大震災では被災者の多くは借家世帯で、東日本大震災では被災した住宅の多くが持ち家だった。自治体などのアンケート調査によれば、仙台都市圏を除けば8割以上が持ち家世帯でした。また、東日本では被災した市町村の規模が小さく、行政としての財政的・人的資源が乏しいこと、さらに人口減少が進行している地域であることも認識しておく必要がある」
だが、そうした相違点を考慮したとしても、震災発生から4年後のデータを比較すると、復興スピードの差はあまりにも歴然としている。
中でも対照的なのは仮設住宅からの転出だ。阪神では仮設住宅の入居者が10か月後の1995年11月にピークを迎え、震災から5年後の2000年1月14日には入居世帯がすべて解消した。この時期には災害公営住宅がほぼ完成し、仮設住宅がその役目を終えていたからだ。
対する東日本では4年経とうとする今も9万戸を超える仮設住宅が残り、完成した災害公営住宅は計画の1割あまり。多くの被災者が先の見えない仮設住宅での生活を続けている。
インフラの復旧が急速に進んだ阪神では、1995年から新設住宅着工戸数が急増し、1996年には13万件超でピークを迎え、翌年から減少に転じた。これは1996年には市内の住宅の復旧が一段落したことを意味している。結果、兵庫県は1996年には早くも人口が転入超過に転じた。
かたや東日本では今も新設住宅戸数が増え続けており、復興が道半ばであることを示している。地元に住むことを諦めた被災者も多く、岩手・福島では人口流出が止まらない。
経済復興にも大きな差がある。帝国データバンクの調査によると、震災から3年間の震災関連倒産件数は、東日本が累計1485件で、394件だった阪神の約3.8倍にものぼる。
「阪神大震災による関連倒産データは、発生から3年までで収集を打ち切りました。理由は4年目以降、関連倒産がほとんどなくなったからです。逆に東日本大震災は今でも関連倒産が発生しており、経済的な復興はまだまだ進んでいないといえます」(帝国データバンク情報部・内藤修氏)
神戸港からの輸出額は1995年は前年比4割も落ち込んだが、2年後には震災前の額を超えた。仙台塩釜港も震災3年後に輸出額が震災前を超えたが、一極集中的に復興が進む仙台都市圏でさえ、阪神よりも復興が遅れているのである。