俳優としてだけでなく、バラエティ番組の司会者やナレーターとしても知られる石坂浩二は、役者ではなく劇作家志望だった。駄目なら作家に戻るつもりで役者になり、時代劇の経験がないままNHK大河ドラマに出演した。そのとき主演だった緒形拳に影響され後の芝居に生きた役の「風格」についての石坂の言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる連載『役者は言葉でてきている』からお届けする。
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石坂浩二は慶應高校在学中に演劇部に入り、大学進学後は芥川比呂志の設立した新演劇研究会に所属した。また、高校時代からラジオ局で構成台本の作家としても活動していた。
「当時の構成台本はビッチリ書いてないと怒られるんですよ。特に、その頃の映画スターの方々はフリーでお喋りにならなかったので。そのうちに、劇団を維持していくために通行人の役とかで出るようになっていくうちにテレビドラマで役が付くようになっていきました。
きっかけは芥川さんが二役で出られた『黒蜥蜴』という舞台です。通行人役で出たのですが、そこにTBSの石井ふく子プロデューサーが来てらして、声をかけてくださったんです。そこから東芝日曜劇場などに出させてもらうようになりました。芸名の石坂の『石』は石井さんの『石』なんですよ。
それで思ったのは、これは楽だな、と。不純なんですけどね。台本を書くのって、苦労するんです。ネタ探しのために本屋で週刊誌を全て立ち読みしていましたし、膨大な量の字を一字一句、全て自分で書いていかなければならない。役者と作家では、あまりに差があるんです。
ですから、当初はまず役者の世界へ行って、それで駄目だったら物書きにいつでも戻ろうという気持ちでもいました」
石坂の名を一気に世間に知らしめることになったのは、1965年のNHK大河ドラマ『太閤記』だ。緒形拳が秀吉役で主演した本作で石坂は石田三成に扮し、シリーズ後半から出演した。
「番組の放送が始まってから話が来たんです。でも『時代劇はできないですよ』と断りました。するとプロデューサーの方が『これは時代劇ではありません。扮装は時代劇ですが、現代劇のままでいいんです』と説得されて引き受けました。