イスラム過激派組織「イスラム国」による邦人人質事件は悲劇的な形で終わった。事件の教訓は何か。「ひきこもり平和論はもう通用しない」。これだと思う。日本は長らく「ひきこもり状態」でも平和と繁栄を享受できた。世界の紛争に関わらず「私たちは戦争を放棄した。平和を愛する国民だ」と言っていれば、コトは済んだのである。それは、まさに「幸せな時代」だった。
だが、幸福な時は湯川遥菜さんと後藤健二さんが殺害された今回の事件で完全に幕を閉じた。日本と日本人の活動はとっくに国境を越えている。もう後戻りはできない。そういう日本人をテロリストが狙っているのだ。
なぜ日本人が狙われたか。それは一部の識者や左翼勢力が強調するように、安倍晋三政権がイスラム国と戦う中東諸国に人道援助したからではない。世界の中で日本の存在が大きくなったからだ。国際社会で存在感を示す日本になったからには、そんな国を悪用し都合のいい敵に仕立てようと考える勢力が現われるのは自然である。まさに、それがイスラム国だった。
そうだとすると、テロへの対処方針は大きく2つある。まず、日本をできるだけ目立たなくする。中東援助も公言しない。テロとの戦いにも一切、言及を避ける。そうやって過激派に目をつけられないようにする。つまり「ひきこもり作戦」である。
これは正しいか。私はまったく間違っていると思う。そもそも不可能だ。すでに日本は世界の中で生きていて、そこにしか未来がない。世界で生きる利益は享受しつつ、難題を見て見ぬふりをするのは卑怯ではないか。日本は卑怯な国であってほしくない。
2つ目の選択肢は、テロを撲滅するために世界と一層連携を深める。テロとの戦いの先頭に立つとまでは言わないまでも、少なくとも隊列の中で存在感をしっかり示す。中学校を思い出してもらいたい。乱暴狼藉を働く悪ガキがいたとして、それを見て見ぬふりをすれば、学校はますます荒れる。勇気を出して乱暴を許さない毅然とした態度が求められている。
テロの教訓を集団的自衛権をめぐる安全保障法制論議と切り離して語れるだろうか。イスラム国は警察力で取り締まれるような勢力ではない。現場検証すらできないのに「違法集団による殺害事件」としてのみ対処するのは現実離れしていると思う。