例の日本人の遺体画像を児童・生徒に見せたとして小学校・中学校の教師たちが謝罪した。ネットでも批判の声が多い。しかし何がいけないのか。コラムニストのオバタカズユキ氏が考える。
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IS(「イスラム国」)に虐殺されたと思われる日本人の遺体映像を授業の題材にしたことで、小中学校の謝罪が相次いでいる。
近くは2月10日、栃木県の私立中学が頭を下げた。同月2日に、社会科担当の中学教諭50代が、殺害された後藤健二さんとみられる動画と遺体の静止画を教室のテレビや私物のスマホを使って、2年生と3年生のおよそ80人の生徒に見せた。地元紙の下野新聞によると、その教諭は「社会に関心を持ってもらいたい、命の大切さを伝えたいとの思いだった」という。
また、同じ10日には、三重県の中学校の謝罪も報道された。こちらは町立中学校の50代の男性教諭が1年生と2年生の3クラスの社会科授業で、殺害されたとされる湯川遥菜さんの写真を持った後藤健二さんとされる画像を、教室のテレビで見せた。NHKによれば、この教諭は「テロ行為が許されないことを学んでもらうとともに、国際的なニュースに関心を持ってほしかった」と話していたそうだ。
そして、もう1件の謝罪は2月5日。名古屋市の市立小学校で20代の女性担任教諭が、社会科の授業中に湯川遥菜さんとみられる遺体と、後藤健二さんとみられる男性が覆面男の隣でひざまづいている静止画像を教室のテレビに映した。朝日新聞によると、女性教諭は「報道のあり方を考えさせるとともに、命の大切さに目を向けさせたかった」と話していたという。
これら教諭たちの行為を、マスコミや識者の多くは言語道断といわんがばかりに批判した。弁護士ドットコムニュースでは、多田猛弁護士が名古屋の小学校の件に対し、<残酷な画像を見せることで、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になったら、教師はどう責任を取るのか。刺激を受けて犯罪に走ったり、下手をすれば模倣するかもしれない>とコメントした。
栃木の中学校の件では、下村文部科学大臣が、「発達段階に応じた教育における指導の在り方というのがある。各メディアも画像を出すかどうかを判断しており、教育現場でそういう配慮もなされないというのは、あるまじきことだ」と述べていた。
ネット上では、私が見渡した限り、賛否両論ある。否定派には、子供たちに遺体写真を見せて教育だという感覚が理解できない、トラウマになるじゃないか、という声が多い。対して、賛成派というか否定派に対するアンチ派は、「死」をことさらに隠ぺいする社会のほうがおかしい、ネットで容易に見られる映像を授業で見せることがそんなに問題か、などの意見だ。比率では否定派のほうが圧倒的に多い。
私自身は、2月1日未明、ツイッターに流れてきた後藤健二さんらしき男性の殺害動画を見た直後、「動画や画像をネット上に拡散してはいけない」という旨のツイートをした。動画を見て、得体のしれない怒りが沸き起こり、自分の感情がコントロールできなくなっていたからだ。そのくらい、人を動揺させる力がこの動画にはある、だから広めてはいけない。直感的にそう思い、「拡散するな!」と叫ばずにはいられなかったのだ。
ただ、それは「ライブ」だったからである。真夜中に、何の心の準備もなく、たった一人で同朋が殺される場面を見せつけられたからであって、もっと落ちついた視聴環境でならば、一概に「見せるな!」とは思わない。むしろ、この世界で現実におきている事件、人間の残虐性をしかとその目に焼きつけろ、という思いのほうが今は強い。でなきゃ、我々は忘れるから。彼らの「死」もあっという間に忘れ去られるからだ。
けれども、報道された小中学校の「授業」は支持できない。なぜなら、なんのためにあの映像を授業で見せるのか。目的に同意できないからである。