イスラム国テロで日本におかしな言論空間が出来上がった。国民の意見は多様であって構わないが、それが為政者による責任逃れの言論操作や、それに加担するメディアによって作られたものであるなら看過するわけにはいかない。なぜか。政府批判や独自取材を激しく攻撃する大新聞のテロ報道は、大袈裟でなく民主主義の危機だからである。2月16日発売の週刊ポスト2月27日号に掲載された記事を、全文公開する。
■では「フクシマ50」も自己責任か
本誌は昨夏から人質事件を報道し続け、後藤健二氏の拉致については新聞やテレビに先んじて情報をつかんで政府内部の取材を続けてきた。だからこそ政府が何をし、何をしなかったかを知る立場にあり、そこに大きな失敗や不作為があったから、それを批判した。本誌が報じた内容は海外でも注目され、世界各国で引用された。
それが安倍政権支持者には面白くなかったのだろう。「政府を批判する者はテロリストの味方」という奇妙な論理が蔓延し、本誌にも「テロリストと共に安倍政権を倒したいならそう言え」と迫るメールが届いた。
まるで日本中が「ネトウヨ化」したような無残な光景だが、それを政治家や大メディアがけしかけ、煽っていることはさらに醜い。
憂慮すべきは2つの倒錯である。ひとつは「自己責任なのだから助けなくて良かった」という論法であり、もうひとつは先に述べた「政府批判はテロリストの味方」という考えである。
読売新聞は「自己責任だから仕方なかった」という世論喚起に積極的に加担している。例えばこんな社論を展開する。
〈外務省は(中略)「退避勧告」を出していた。/だが、憲法が渡航の自由を保障しているため、勧告に強制力はない。外務省は後藤健二さんに、シリアに入国しないよう再三要請したが、聞き入れられなかった〉(2月4日付)
事件対応を免責される安倍政権にとって、これほどうれしい援護射撃はない。しかし、この新聞の自家撞着(じかどうちゃく)は見るに堪えない。
もし自己責任は助けなくていいなら、例えば失火で火事になり焼け死にそうになっている国民には消防車も救急車も呼ばなくていいことになる。自殺を図って病院に運ばれた患者は、もちろん治療しなくてよい。違法建築の家が大震災で潰れたら、そのまま生き埋めにしておく。それが読売新聞の考えなのだろうか。
もちろん天下の読売はそんな反文明的なことはいわない。良い例がある。2013年6月、読売テレビの人気キャスターからフリーに転身した辛坊治郎氏がヨットで太平洋横断の冒険に出かけたものの、わずか5日後に遭難し、自衛隊などにより救出された。その時、読売はどう報じていたか。
〈(辛坊氏は)衰弱した様子だったが、隊員が「けがはないですか」と声をかけると、しっかりとした口調で「けがはないです」と応じた。(中略)救助した飛行艇の機長は「荒天の中で長時間、ボートで漂流し、苦しかったと思う(中略)」と振り返っていた〉(2013年6月30日付)
無謀な挑戦者の救出劇を先進国家の美談として伝える記事だ。自己責任かどうかと政府対応の是非は別の問題だ。なぜなら自己責任でない民間人も同じように人質にされる可能性があるからだ。
後藤氏は何が起きても自己責任であると表明するビデオを残していた。本人がそう言ったからといって、本当に何もしない政府など世界中どこにもない。自己責任だと覚悟して自分の使命を果たそうとした人間を見殺しにするのが、「日本人には指一本触れさせない」と力強く語った総理大臣のやり方なのだろうか。
読売新聞が本当に「自己責任の者は社会悪」と考えるならば、福島原発の事故対応で命を懸けて国民を救った「フクシマ50」に対しても同じことをいうのか。「あなたたちは自己責任で自分の職務に命を懸けただけだから、英雄でも何でもありません。むしろ政府と国民に迷惑をかけたのです」と。彼らが口を極めて批判した朝日新聞の「原発職員は逃げた」という虚報と変わらぬ見当違いになる。