【著者に訊け】沢木耕太郎氏/『銀の街から』/朝日新聞出版/1600円+税
先月と今月、順次刊行される、沢木耕太郎氏の映画エッセイ『銀の街から』と『銀の森へ』(3月20日発売)。後書きには〈私には映画館に入るという行為が、なんとなく暗い神秘的な森に入っていくという感じがしてならない〉とあり、なるほど「街から森へ」の方が、たしかに流れはいい。
「元々は15年前に朝日新聞で始めた連載が『銀の森へ』で、それが朝刊に移動して『銀の街から』になった。今は『街』のまま、また夕刊に戻りましたけど(笑い)」
本書はその月々の封切作を紹介した最近の約7年分、計90本を収録しているが、1作につき3頁足らずの文章が、殊のほか味わい深い。映画を観る楽しみはその時空間にたゆたう愉悦そのものとも言えるが、沢木氏の映画評も然り。その一文一文にいつまでも浸っていたくなり、次の頁を繰る手がつい止まりがちになる。
「僕は映画評論家と違って語るべき薀蓄も知識もないし、ネタバレという言葉もあまり好きではない。仮にあらすじを知っていても、僕らはその映画でしか観られない何かを観に行くわけで、単なる映画紹介を超えて楽しめる読み物を毎月書いてきたつもりです」
それはあらすじでも結末でもなく、その映画をその映画たらしめる核のようなもの、と解釈すればいいのだろう。例えば『天然コケッコー』(2007年 山下敦弘監督)のこんな紹介──。
〈夢のような土地に、夢のような学校がある〉
〈そよが、この「夢のような時間」もやがて消え去るものなのだということに気がつくようになったとき、すでにそよの成長物語としてのこの映画は完結している〉
〈だとすれば、後半におけるそよの「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」という独白は必要のないものだ〉
〈その思いは、この映画が、全編を通して、見ている者に静かに語りかけつづけていたはずのものであり、また、見ている者が『天然コケッコー』の世界をたゆたっているあいだ、常に感じつづけていたはずのものであるからだ〉
「つまりその台詞がいわんとすることはもう十分描けている。最近も朝日新聞の連載で『アメリカン・スナイパー』のある場面に焦点を当てましたが、それはむしろ僕がこの映画で最も感心した点とは真逆のシーンだった。つまり全体を輝かせる断片を表面的な是非を超えて切り取れると、割合、うまくいきます」