家康は九死に一生を得ました。この失敗を肝に銘ずるため、顰像(しかみぞう)と呼ばれる肖像画を残しました。そして、身をもって学んだのが「待つ」ことの大切さです。後に家康は「人の一生は重荷負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず」で始まる遺訓を残しましたが、三方ヶ原の戦い以降、家康は「待つ」ことで確実に天下をたぐり寄せました。
それが強く発揮されたのが対秀吉の関係です。家康と秀吉がただ一度戦場で直接対決した1584年の小牧・長久手の戦いで、家康は局地戦で勝利しながら、和睦によって秀吉の家臣となりました。強引に天下取りに進むことなく、いったん待つことを選択したがゆえに、後により大きなチャンスと巡り会います。1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いです。
家康はそれに勝っても、すぐには幕府を開きませんでした。1603年、天皇によって征夷大将軍に任命され、同時に源氏長者の官職を与えられます。名実ともに武家と貴族両方のトップとなるまで待ったのです。それだけではない。さらに大坂冬の陣、夏の陣で豊臣一族を滅ぼすまで、家康はさらに12年の歳月を待ちます。そこまで待って初めて、長きにわたる泰平の世を築くことができました。
家康の我慢と忍耐に成熟した男の器を感じることができるのです。
◆松平定知(まつだいら・さだとも):1944年生まれ。早稲田大学卒業後、NHK入局。『19時ニュース』『その時歴史が動いた』など数々の看板番組を担当。2007年にNHKを退局し、現在は京都造形芸術大学教授を務める。武将の智略について考察した『謀る力』(小学館新書)など歴史についての著書多数。
撮影■佐藤敏和
※週刊ポスト2015年4月17日号