4月4日、母校・近畿大学の入学式にゲスト出席した音楽プロデューサーのつんく♂さん(47)が、喉頭がんのため声帯を全摘出したことを公表した。つんく♂さんの「勇気ある選択」に対し、芸能界のみならず各界からエールが送られている。かつてつんく♂さんに人生の分岐点をインタビューした記者が、その記事を紹介する。(文=フリーライター・神田憲行)
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記事は週刊ポストに連載していた「瞬間の残像 わが人生の分水嶺」という。週ごとに各界の著名人が登場し、自分の人生を振り返りながら、人生の分岐点を語ってもらうという趣旨である。つんく♂さんの取材は2008年8月に行われた。
インタビューはまず、つんく♂さんが子ども時代を振り返るところから始まる。
《子どものころからブームになったり流行しているものを見ると、「なんでこれは流行るんやろ」とか考えのが好きでした。小学校でルービックキューブが流行ったら、自分で遊ぶより「なんでこれが流行るんやろ」と考える。オモチャ屋さんいくと、店の看板商品を置く棚を見て、「ははん、これが次に来るオモチャなんやな」と思うような子どもだったんです(笑)。ピンクレディの新曲が出たら誰よりも先にエアーチェックして、「新曲録ったで、みんな聞いて」とクラスに持って行ったりとか、自分が好きなもんを人に広めたいという気持ちが強かった。当時はそんな言葉は知らなかったんですが、これがのちにプロデューサーという仕事につながっていったんでしょう》
《人を束ねて、物事を円滑に進めていくのも好き。たとえば小学校のレクレーションでも、学級委員によって全然違うじゃないですか。つまらん内容だったら「なんや今日のレクレーションは……俺やったらもっとうまくすんのに」とか、文化祭の出し物でもテキパキと物事が進まないとすぐイラッとくる。だから学級委員とかようやってましたよ。中学で生徒会長をやったときは「このネタで俺が有名人になったときひとトーク出来るな」と思てましたもん。それは確実に思ってました(笑)》
《僕はいまアーティスト、プロデューサー、会社社長という三つの仕事を掛け持ちしていて、たまに人から「よくそんなにいろんことが出来ますね」と言われるんですが、そういう子どもだったから出来るんだと思います。そしてその原点は実家の乾物屋にあります》
つんく♂さんの実家は大阪の下町で、「間口二間半(約4.5メートル)」(つんく♂さん)の乾物屋を営んでいた。その店をつんく♂さんも小学校に上がる前から手伝っていた。
《僕は男ばかり3人兄弟の長男で「跡取り」ということもあって、最初はお使いから始まり、小学校高学年のときにはもう店先でお客さんの相手をしていました。下町の乾物屋なんて、年末には恐ろしいほど人が来るんですよ。店先ではいっぺんに5人ぐらい相手しないといけない。目の前のおっちゃんにお釣りの計算をしつつ、向こうにいるお客さんの相談に乗って、後ろから親父の用事も聞いて、右端のおばちゃんに「ええシイタケ入ったで」と勧める。レジみたいなしゃれたものありませんから。ザルにお金を入れて天井からゴムで吊す昔のあれですわ》
《でもそうやって接客していくと、だんだん頭の中に仕事用の「棚」みたいなのが出来てくるんです。「このお客さんとはこれ」「あのお客さんとはあれ」と頭の中で仕分けして、同時にたくさんの仕事を進めていくコツができる。これがモーニング娘。に生きました。いろんなユニットを作って年間にアルバム五枚くらい出していましたからね。他のアーティストから「5枚ってどうやったら出来るの。俺ら2枚で(仕事が錯綜して)ケンカになってしまう」とびっくりされました》