長い金色の髪に甘いマスク。貴公子然とした風貌にも関わらず、女性のようなか細いしゃべり。しかしまた、歌ネタになると「そんなことより気になるのは…」と低音で重厚な歌声で観客を圧倒する――。大好評シリーズ企画の「転機」今回は、二転三転するギャップで人気急上昇中の歌ネタ芸人、タブレット純(40才)。芸人になる前は歌手活動をしていたというが、そこからどうして芸人に? 本人を直撃した。
――タブレットさんのネタの世界観は独特ですが、この平成の時代に、数ある音楽ジャンルの中からムード歌謡をチョイスされるあたり、異彩を放っていますね。
タブレット:小学5年生の時に、AMラジオでたまたま和田弘とマヒナスターズの『泣きぼくろ』を聴いたんです。初めて聞いたサウンドで、メロディーや詞の世界に衝撃を受けまして。卒業文集の好きな芸能人の欄に、“マヒナスターズ”と書いたほどです。周りの友達はチェッカーズとかC-C-Bなのに(笑い)。
――それからムード歌謡歌手を目指して?
タブレット:いえ。ギターは高校からやっていましたが、引っ込み思案ですし、歌手になろうとも、なれるとも思っていなくて。自分はレコードや資料を集めるマニア的なことをしていたんです。それでマヒナスターズのメンバーの方がカラオケ教室をしているのを、記事か何かで知りまして。インタビューしたいと尋ねたら、歌を習わないかと誘われたんです。それから2か月後に、マヒナスターズの一員になることに。
――それまで歌さえ習ったことがなかったのに?
タブレット:今だから言えるんですけど、マヒナスターズはボーカルが全員脱退してしまって、分裂したんです。和田弘さんは意地で新生マヒナスターズを立ち上げて、プロモーションも始めていたんですが、さらに主要なメンバーが抜けてしまった。1人足りないということで、自分のような素人に声がかかったんです。自分ならマヒナの曲を全部知っていて口パクができるから、立っているだけでいいから来いという(笑い)。
――それから生活が一変した?
タブレット:そう思ってバイトを辞めたのですが、その間はメジャーになっていませんし、ふたを開けてみれば月に2、3回という仕事量でした。和田さんに“田渕純”と芸名をつけてもらってボーカルとして活動していたんですけど、2年目に和田さんが亡くなって、葬式以来みんなバラバラになってしまいました。
――そこで歌手活動を辞める人もいる中、タブレットさんはソロ活動を開始したんですね。
タブレット:スナック周りですね。マヒナスターズに入ったということで地元に認識されていたので、年配の方が自分を呼んでくれたんです。なんだかんだで、マヒナスターズの頃より個人になってからのほうが動きやすくなったぶん、あちこちのスナックに呼ばれて忙しくなりました。8年くらいスナック周りをしましたね。
――苦労しましたか?
タブレット:収入的には、マヒナの頃より良くて。おひねりで収入を得ていたんですけど、1日に7、8万円分の千円札もらったり。むらがありますが、宴会シーズンだと月に50万円ほどになることもありました。貯金をせずにおひねりを缶にずっと入れていて、ある日数えたら、その月は50万円くらいあって。
でも当時は酒浸りでした。田舎って昼間のスナックが盛んで、昼カラオケという世界があって、昼間からみなさん歌いっぱなしで。お酒を勧められたりもして、飲んでは歌って歌っては飲んで、という。それで何軒もスナックを回って。収入が結構あっても、体はボロボロでした。
――このままの生活じゃいけないという思いもあった?
タブレット:そうですね。そんな時、友人に東京のライブハウスに出てみないかと誘われたんです。「“アル中”になってる場合じゃないよ」って。新宿ゴールデン街劇場でこけらおとし公演があって、それに出ることになって。その3日間の間に都内に引っ越してきちゃいました。ある意味、故郷を捨てたじゃないですけど、それから地元からは遠ざかって、都内のライブハウスをひたすらまわって歌っていました。
――ライブハウスの時の収入は?
タブレット:過酷でしたよ。おひねり収入がなくなりましたし、ライブハウスだとノルマがあったりして、逆に支払う羽目になったりとか。音楽としてはほぼゼロに近いくらい。アルバイトに明け暮れていましたね。
――これまでの話では、まだ芸人になる兆しが見えませんが…。
タブレット:司会をさせられたりとか、一部のサブカルの人に面白がられたのが、芸人に繋がるんですね。急に失神しろと言われて、歌いながら失神するようなこともして。グループサウンズっていうジャンルのコンセプトでもあるんですけど、熱狂して急に失神して担架で運ばれる演出をしたりしました。その後、浅草東洋館に出演したことが、芸人になる転機ですね。