30年以上もプロレスを追い続け、海外レスラーとの交流も多いライターの斎藤文彦氏が、ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る。以下、週刊ポストでの同氏による連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」から、プロレスラーになる前の馬場についての抜粋をお届けする。
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ジャイアント馬場(本名・馬場正平)は昭和13年1月23日、新潟県三条市出身。
昭和40年代の専門誌『プロレス&ボクシング別冊』(ベースボール・マガジン社)の記事には、馬場自身のコメントとして、こんな記述がある。
「わしの誕生日は1月23日。横文字でいうと“ワン・ツー・スリー”。プロレスのフォール勝ちには、なんとしても必要な数字だ」
馬場が本当に自分を“わし”といったかどうかはさだかではないが、コメントのすぐあとには「ジャイアント馬場はなかなかうまいことをいう」という執筆者の感想が記されている。
馬場は少年時代から体が大きく、高校に入学したときは、すでに身長が2メートルを超えていた。三条実業高校時代は野球部で活躍し、“超高校級大型ピッチャー”として早くから注目された。
昭和29年夏、馬場が“2年生エース”のとき、三条実業高は甲子園の新潟県予選1回戦で長岡高校に敗退。しかし、読売ジャイアンツからスカウトされた馬場は同年、高校を中退して、プロ野球選手となった。まだドラフト制のない時代だった。