スポーツの歴史をひもとくと、“歴史的誤審”といわれるものがいくつもある。大相撲では、大鵬の連勝記録を止めた誤審がよく知られている。1969年3月の大阪場所が開幕するまで、横綱・大鵬は44連勝。当時、双葉山の69連勝に次ぐ記録であり、戦後では最長だった。大阪場所で全勝すれば連勝は59に伸び、次の場所でいよいよ双葉山の記録に挑戦することになるはずだった。
初日に小結・藤の川を破った大鵬の2日目の相手は、前頭筆頭の戸田。22歳の若手で勢いがあり、初顔合わせの相手だ。横綱は初顔合わせの相手とは場所前の巡業で一度は稽古しておくのが普通だが、たまたま戸田とは稽古できていなかった。また、大鵬は朝の稽古ではいつも、その日の対戦相手を想定して部屋の幕下力士相手に調整するが、その日は幕下力士たちが自分の対戦のために早々と稽古を切り上げていた。
そうした準備不足、調整不足が響いたのかどうか。立ち合いから大鵬は戸田ののど輪、突き落としによって体勢を崩され、土俵際に押し込まれた。だが、俵伝いに右へ回り込みながら、はたいた。倒れ込んでくる戸田に押されて土俵を割ったが、その前に戸田の右足が土俵を割っていた。行司の最高位である立行司の二十二代式守伊之助はそれを見逃さず、大鵬に軍配を上げた。
すると勝負審判のひとり、元大関・栃光の千賀ノ浦親方から物言いがついた。土俵上で元横綱・栃錦の春日野審判部長ら5人の審判による協議が始まると、「大鵬には体がなく、先に土俵を割った」という千賀ノ浦親方の主張に他の3人の勝負審判が同調した。そのため、春日野審判部長は行司差し違えで戸田の勝ちという裁定を下した。
だが、伊之助の軍配通り、戸田の足が先に出ていたことはテレビ中継の画面にはっきりと映り、翌日の新聞各紙が掲載した決定的瞬間の写真でも示されていた。他ならぬ戸田も、「自分の足が出たので負けたと思った」と取組直後に話している。
明らかな誤審によって連勝が途絶え、大記録への挑戦が夢と消えてしまったのである。