ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏の週刊ポストの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、馬場と猪木の全盛期と、そのキャラクター、人間性をよく知る人物として徳光和夫氏(元日本テレビ・アナウンサー)の話を聞いた。
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国内最初の民放として開局(昭和28年)した日本テレビは、昭和29年2月、日本のプロレス史のプロローグである力道山&木村政彦対シャープ兄弟の一戦を中継。プロレスとは古くから密接な関係にあった。
プロレス中継番組の実況アナウンサーは、佐土一正氏と清水一郎氏の2人で、佐土氏は力道山の現役時代のほとんどの試合の実況を担当、清水氏は力道山時代の昭和32年から馬場・全日本時代の昭和53年まで約20年間にわたり“プロレス中継の声”として活躍した。
徳光氏は、当時の状況をこう振り返る。
「佐土さんはニュースを読まれたり、清水さんはドキュメンタリーのナレーションを担当したりで、ほかにも番組を持たれていた。プロレス中継の実況は、なり手がいなかったんでしょうね。私自身は、プロレスにはアレルギーというか、嫌悪感を持っていました」
“プロレスの父”力道山が生きていた昭和30年代後半──徳光氏の学生時代──の時点で、世間一般にはすでにプロレスに対する“八百長論”が定着していた。
そんな徳光氏の心を揺さぶったのは、尊敬する先輩アナウンサーであった清水氏のアドバイスだった。
清水氏は、23歳の新人アナウンサーだった徳光氏に、こう語ったのだという。
「なあ、徳光、そもそもスポーツはショーだろ。プロレスは最高のショーだぞ」
「プロレスというものは、受け身のスポーツだ。いかに技を大きく見せるかだ。そのために選手は体を鍛えている。それを八百長だなんだというのはおかしい」