記事を読んですぐ指摘したくなるのは、「保護施設はマイクロチップの有無をなぜ調べなかったの!」という点だが、日本の自治体の動物保護施設や動物病院などでは保護された犬猫すべてにマイクロチップの読み取りをしているとされるけど、アメリカのカリフォルニア州がどうだかは知らない。保護施設といっても、かなりインチキな団体が黒白猫を拾ったのかもしれない。
そこは情報不足で不明だが、まあともかく、このニュースから読み取るべきはもっと別なところだと思うのである。何がポイントなのか。その答えは、ニュースの見出しの中に入っている。「所有権争い」という言葉だ。
ティファニーさんもテレスさんも、彼女たちにとってこの白黒猫は、自分の命の次ぐらいに大事な存在かもしれない。なのに、モノと同じ「所有権」の奪い合いになってしまっていることが、どうもこのニュースをただの悲劇だけではない読後感の悪いものにさせている。
ペット飼育に「所有権」の概念を当てはめる法律がヘンなわけじゃない。むしろ法律はペットを飼育することの本質を指摘している。2人の女性がどんなに白黒猫を愛しているとしても、その愛はとどのつまり所有欲にすぎないという事実が裁判で浮かび上がったのだ。
2人の女性を責めたいわけでもない。ペットを人間が飼育するという動機の基本形が、所有欲であり、独占欲であり、支配欲とでも名づけるようなものだとつくづく思うのだ。ゆえに、欲と欲がぶつかれば争いごとになる。旧飼い主が「そこまでなついているなら、どうぞ末永くかわいがってください」とならず、新飼い主も「この5年間楽しかった。ありがとう。さあ、元のおうちにお帰り」と白黒猫に言えないのは、欲が深いからなのである。
仏教的な考え方が根付いている日本人なら、「業が深い」という表現がしっくりくる。業はカルマ。なぜだかわからないけどそうしてしまう人間の心の仕組みのようなもの。それに気づかず固執すると自他に悪循環がおきる。
ちゃんと仏教を習ったことはないので用語解釈がズレているかもしれないが、私はそう考える。そう考えてみてはどうですかと、ティファニーさんとテレスさんに進言しても通じるまい。そんなことも考えるとこんどは異文化交流の難しさが想起され、日本で同様の裁判がおきたら相当ワイドショーが騒ぐぞなどと想像してしまうのは、たぶん煩悩のなせる業だ。「喝!」である。