今夏の甲子園は早稲田実業の怪物1年生・清宮幸太郎フィーバーが必至だが、「元祖・甲子園のアイドル」といえば三沢高(青森)の太田幸司氏である。1968年夏、1969年春と甲子園に出場したが、人気に火をつけたのは1969年夏の決勝、松山商業(愛媛)の熱戦だろう。延長18回と、翌日の再試合を1人で投げ抜き準優勝。美少年エースの熱投に日本中の女性ファンが熱狂した。太田氏が当時の人気を振り返る。
* * *
3年の夏は大阪入り早々、宿舎の周りに数人の女子高生が集まり、塀を乗り越えて宿舎に侵入する騒ぎがあった。それで僕たち三沢ナインは外出禁止になり、期間中は宿舎と甲子園球場の往復だけでした。
準決勝と決勝では、甲子園の行き帰りのバスに乗り込むのも大変なほど人が集まったのを覚えています。決勝では私だけ別の車で甲子園入りしました。チームメートはファンの多さに喜んでいましたね。ただ人気の中心が私だということは、自分でもまだわかっていませんでした。
フィーバーのスイッチが入ったのは、やはりあの延長18回の決勝戦だったと思います。三沢に帰ると毎日、膨大な量のファンレターが届きました。段ボールに何箱というレベルです。郵便物は『青森県・太田幸司様』だけで自宅に届いていましたからね。両親が毎日、ファンレターと普通の郵便に仕分けをするのが大変でした。
その後も騒ぎは大きくなる一方だった。決勝直後から日本代表として1か月近くブラジル遠征に行ったので、帰国する頃にはさすがに収まるだろうと思っていたら大間違いでした。自宅や学校にやってくる女性ファンは後を絶たず、中には「大阪から家出してきました」という女子高生もいました。