朝鮮戦争は、東アジアの秩序を決める転換点である。この戦いに、「参戦」した日本人がいた。米国の要請を受けた吉田茂首相の密命によって結成された日本特別掃海隊。国会で議論されているペルシャ湾での掃海作業は、今から半世紀前、彼らによって原型が作られていた。ジャーナリスト・城内康伸氏が65年前に朝鮮半島沖で繰り広げられた掃海の実態をレポートする。
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1950年10月2日、大久保武雄・海上保安庁長官は、米極東海軍司令部参謀副長のアーレイ・バーク少将から、海上保安庁の掃海部隊を朝鮮半島沖に派遣するよう突然、要請された。
その年6月、北朝鮮軍の南侵で朝鮮戦争が勃発している。米軍は9月15日、仁川(インチョン)への奇襲上陸に成功し、マッカーサー連合国軍最高司令官は北朝鮮への突入を計画する。補給線確保のため、北朝鮮東岸に揚陸港が必要となり、元山(ウォンサン)が選ばれたのだった。
元山沖は、北朝鮮が敷設した3000個に及ぶ機雷の海だった。しかし、朝鮮水域を管轄する米海軍第7艦隊に配備された掃海艇はわずか14隻しかなく、圧倒的に不足していた。このため米軍は戦前からの技術と経験が豊富な日本の掃海部隊に応援を求めた。
3年前に施行されていた日本国憲法は、戦争放棄を定めている。戦時下にある朝鮮水域での掃海は、明らかに戦闘行為に当たる。 しかし、対日講和を前にした日本に、米国の要請を断る選択肢はなかった。大久保長官が指示を仰ぐと、吉田茂首相は言った。
「極秘でやってくれ」
海上保安庁は10月4日、各地の掃海隊に下関・唐戸基地に集結するよう指示。6日の指揮官会議は「憲法違反ではないか」と紛糾したが、田村久三総指揮官が「北緯38度線を越えることはない」と約束することで何とか収束した。
8日未明、掃海母船「ゆうちどり」を先頭に、掃海艇4隻、巡視船3隻の日本特別掃海隊第2掃海隊が行き先を知らされぬまま、出港する。隊員は計207人。極秘行動のため、海上保安庁のマークや船名を塗りつぶし、日の丸の掲揚は禁止。無線は封鎖、各艇の連絡は手旗信号と発光に制限された。
彼らは同日夕、対馬東方海上で、米掃海部隊と合流した。米側の「我々の左側に縦列になって同行せよ」との指示に従って、朝鮮半島の東側を北上し続ける。
下関を出て一昼夜が過ぎた9日夕。第2掃海隊の能勢省吾指揮官の手記によると、彼が乗る掃海艇MS03号で、乗組員が声を上げた。
「北緯38度線を突破したぞ。大変なことになるぞ!」
総指揮官の約束はあっさりと、反故にされたのだ。10日未明、元山沖に着いた。海上には、戦艦や空母、巡洋艦など多数の米軍艦が浮かんでいた。元山前に広がる永興(ヨンフン)湾の湾口付近で、米駆逐艦が陸上に向けて砲撃を繰り返していた。能勢指揮官は手記に「とうとう戦場に来た」と当時の心境を記している。