「俺は置き去りにされる犬が可哀相で、『南極物語』すら観られない男だからさ。犬を殺す場面なんて、書いてる本人が心臓バクバクでしたよ」
自分を拾ってくれた貸金屋から政界に渡る裏金11億円を強奪し、そのために自分に懐いていた3匹の番犬や、現場に居合わせた女までも殺害。この資金を元手に戦後~高度成長期を生き抜く男〈根津謙治〉を描いた藤田宜永氏(65)の新作『血の弔旗』は、安易に共感できるイイ話に飼い慣らされた現代を挑発するかのように、あえて主人公への共感のハードルを上げる。
「それこそ人を殺すより犬を殺す方が許せない感じもするし、今だったらネットで『サイテー』と一蹴されてしまう男かもしれない。だけど、そんな魂の渇きを、かつて犯罪小説やハードボイルドは描いてきた。
大藪春彦は朝鮮、生島治郎は上海からの引揚者で、『犯罪小説はもう一つの戦後文学だ』というのが俺の考えです。そこには彼らの戦争体験が翳を落としている。単に男らしい男が活躍するのがハードボイルドじゃないんです」
事件が起きた昭和41年8月15日から平成13年8月9日の決着までを、同書はその時代の風俗と共に活写する。作品を書き上げたのが、25年前、軽井沢に構えたこの仕事場だ。根津が生まれた昭和11年当時の住宅地図や、無数の雑誌類に囲まれた執筆部屋は、まさに小説生産の「コックピット」。
「書棚の多くは組立家具。何か目的をもって調べるというよりは、普段何となく眺めている中に発見がある。本屋で隣の本につい目が行くように、デジタルで直線的な情報収集では見落としがちな背景や些事にこそ、小説のヒントが潜んでる。社会風俗というのは検索もデジタル処理もできない“時代の気分”ですから」
彼が描こうとしたのは、「昭和とは一体、何だったのか」だ。
「俺は昭和25年生まれの紛れもない昭和っ子で、親から戦争の話を聞かされて育った。死んだ親父は明治42年生まれで、太宰治と同い年。昭和20年に入ると30過ぎた親父にまで赤紙が来た。出征目前で終戦になったらしいけど、満鉄にいた叔父や元兵士が見ただろう地獄を、直接的・間接的に表現してきたのが戦後文学だと俺は思う。
つまり人間は誰しも残忍さと優しさを併せ持つ。根津が仔猫を拾おうが家族を大事にしようが魔に落ちる時は落ちるんです。その不条理に正対したのが例えば大藪の『野獣死すべし』で、そこでは今風のおためごかしは一切通用せず、ただ渇望だけがある」
犬を殺し、女を殺した根津も、単に金が欲しかっただけではないと説く。