“日本の最強権力”検察は、過去数多の政治家を摘発してきた。だが、彼らの振りかざす“正義”にも裏があった。政府と検察の間で交わされた、最初で最後の「法務大臣の指揮権発動」の密約について、ジャーナリストの青木理氏がレポートする。
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1954年初頭、検察の精鋭捜査部隊である東京地検特捜部は沸き立っていた。造船会社などから有力政治家に賄賂が流れたとされる造船疑獄の捜査が進展し、特捜部は当時の与党・自由党の議員らを続々逮捕する。捜査はさらに政界中枢へと伸び、最高検察庁は同年4月20日、自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕許諾請求まで決めた。
しかし翌21日、吉田茂政権の法相・犬養健は検事総長に対し、国会で重要法案審議中であることを理由として検察庁法に基づく指揮権を発動、逮捕請求を延期させ佐藤逮捕は頓挫した。法相の指揮権(※注)発動は初であり、以後も例がない。汚濁した政界に向けて振り上げられた検察の正義の刃が不当な指揮権で折られ、検事たちは悲嘆にくれたこれが巷間伝えられてきた“正史”である。
※注:指揮権/検察庁法により、公訴や捜査などの検察事務に関し、法務大臣は検察官を一般に指揮監督できると定めつつ、個々の取り調べや処分については検事総長のみを指揮できる、と制限している。これを法務大臣の「指揮権」と呼ぶ。
だが近年、この正史は歪められたものだ、との見方が出ている。どういうことか。
特捜部は当時、イケイケで突っ走ったものの、実は穴だらけの粗雑な捜査であり、佐藤逮捕に踏み切っても公判維持すら難しかった。そこで当時の検察幹部が政権側に接近し、指揮権発動を誘発して捜査中断を演出した。にわかには信じ難いかもしれないが、これを裏づける有力な傍証はいくつもある。
代表的なのは吉田政権の副総理・緒方竹虎の日記だ。親族が管理する日記はいまも非公開だが、緒方の伝記を執筆した作家らによって一部紹介されている。