今「山口組の分裂」が世間を騒がす大きなニュースになっている。全国紙やテレビが伝えるだけでなく、菅義偉官房長官が定例記者会見でコメントしたり、英国紙「ガーディアン」まで報じている。
なぜ、これほど注目されているのか。暴力団の事情に詳しいジャーナリストの伊藤博敏氏が解説する。
「山口組は今からちょうど100年前の大正4年に神戸で結成されました。初代組長は神戸の港で、陸から船に、船から陸に荷物を運ぶ港湾労働者の元締めでした。山口組の組員を三十数人から1万人超まで増やし、日本一の暴力団組織にしたのは田岡一雄三代目組長。山口組は飲食店経営から歓楽街の用心棒、不動産業、金融業、芸能まで全国で手広く事業を行うようになりました」
当時、山口組は芸能プロダクションを経営。田岡三代目組長は“昭和の歌姫”美空ひばりさんの事務所の副社長を務め、ひばりさんの興行権を独占。小林旭との離婚会見にも同席し、高倉さんとは酒を汲みかわす仲だった。
「勢力を拡げると、他の団体と“シノギ(暴力団が金を稼ぐ手段のこと)”の取り合いが起きる。山口組は全国で多くの抗争事件を起こし、組員の忠誠心と戦闘能力で他団体から恐れられた」(伊藤氏)
暴力団は組長を頂点にするピラミッド組織。組長と「親子盃」を交わした組員は「親分と子分」の関係になり、子分は組長と組の利益のためにあらゆる手段を尽くす。組員は資金を集め、さらにその子分を増やすことで自分も親分となって「組」を持ち、さらに組織は拡大していく。
親分と代紋(組の象徴である紋章のこと)のためなら、子分は命さえも投げ打つ――山口組はそうした“鉄の結束力”で日本最大の組織にまで成長した。
会社でもどんな組織でも、大きくなればなるほどグループや派閥ができやすくなる。山口組も例外ではなかった。
「山口組は初代から五代目まで関西の団体の出身者が組長を務めてきた。中でも、渡辺芳則五代目組長を輩出した『山健組』が山口組内での主流派とされてきた。ところが、六代目組長には名古屋を拠点とする『弘道会』の出身である司忍組長が就任しました。そこで山口組内に、関西の山健組を中心とする派閥と、名古屋の弘道会を中心とする派閥の2大派閥ができたのです」(伊藤氏)