【著者に訊け】帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏/『悲素』/新潮社/2000円+税
「私は小説を、自分や世の中の不明に怒りながら書いとっとです。こんちきしょう、このバカタレがってね」
本書『悲素』での怒りは1998年7月、祭りで提供されたカレーに何者かが毒物を混入、死傷者67名を出した和歌山カレー事件にあった。
「犯人はもちろん、カレー事件だけを恣意的に裁いた裁判官もバカタレですよ。せっかく井上(尚英)先生たちが毒物を砒素と特定し、その他1件の殺人及び3件の殺人未遂を究明したのに、その地道な努力が報われんかったとですから」
福岡県中間市内に精神科のクリニックを開く作家・帚木蓬生氏が、地元の医師仲間でカレー事件やサリン事件にも捜査協力した井上尚英九州大学名誉教授から鑑定資料一式を託されたのは3年前。「知られていない事実があまりに多すぎる」ことに驚いた氏は、井上氏をモデルにした〈沢井直尚〉を主人公に、同事件や裁判の経緯を克明に再現する。
毒は人に全能感を与え、その〈嗜癖〉性こそが問題だと氏は言う。つまり毒に見入られた者は2度3度と過ちを繰り返し、愚かで悲しい「悲劇の素」になると。
昭和40年代にSMONの薬害研究を手がけ、パーキンソン病の研究でも知られる神経内科医・井上氏は、日本に数少ない砒素中毒の第一人者。その彼に和歌山県警から極秘の鑑定依頼があった1998年8月から、2009年5月の死刑確定前後までを、本書では主人公・沢井及び林眞須美ならぬ〈小林真由美〉を軸に、小説に描く。
「例えばカレー事件以前に彼女が従業員や夫にかけた保険金の正確な金額など、当時はわかっていないことも小説なら整理して書ける。時系列が多少前後してでも、事件の全体をわかりやすく書く必要があったとです。
たぶん彼女は保険をかけた他の麻雀仲間にも砒素を盛り、急死した母親も含めれば何人手にかけたか知れない。その事実はみんなが知らなきゃいけませんし、他人に簡単に保険をかけて、死亡保険金や入院給付金を何重にもせしめられるなんて、一度やったらやめられなくなる〈貯蓄付きの宝くじ〉みたいなもんです!」