九州電力川内原発が再稼働した。東日本大震災の際に発生した福島第一原発事故は多くの避難者を生む結果となったが、この教訓を忘れてはいけない。避難生活は長く、辛いものになる。
東日本大震災翌日に「全町避難」の指示を受け、家族3人でいわきへと向かったのは、福島県双葉郡楢葉町で生まれ育った猪狩秀男さん(71才)だ。42年間勤めた郵便局を61才で退職した後は、地元の特別養護老人ホームの警備員などをしていて、震災当日も勤務に出かけていた。
「自家発電を備えた施設は避難場所に指定されていて、周辺の集落の人が集まっていました。まさか原発が爆発するとは思わないし、集落の人たちも『明日になれば家に帰れる』と考えていたんでしょう。
ところが翌日になったら、町から、『原発が危ないから、いわきのほうへ避難してください』と放送があった。急いで家へ帰ったら家内が準備をしてくれていて、息子と飼い犬のチョコを連れて、車に乗りこみました。道は大渋滞で、いつもなら1時間弱で着くのに、2~3時間かかった。
町からは漠然といわきへの避難を促されるだけで、辿り着いた避難所は満員で入れない。よその土地であっちの避難所へと言われても、『あっちのほうじゃ、わかんねぇっぺ』とぐるぐる車で回った。右往左往しているうちに幸運にも友人と会って、泊めてもらえました。そこで原発が爆発して放射能が漏れたと知り、『あぁ、これはちょっと帰れないかなぁ』と、避難所にいたみんなと話し合って判断しました」(猪狩さん・以下「」内同)
軽装だったため、本格的な避難生活を見据えて帰宅した。
「家の中に入ると、本はガタガタに倒れているし異臭がした。たった1週間でねずみが入ったんだね。糞があり、おしっこのにおいがした。家には1~2時間いたでしょうか。『放射能が』といわれても、目に見えるものではないし、状況がわからない。防護服もその頃はないですし、部屋を片づけて、荷物をまとめました」
その後は別地区の避難所で10日間ほど過ごして、いわき市内の仮設住宅へ入居した。
「これが本当に住みづらいところなんです。動物がいるから人気のない住宅へ割り当てられたというのもあるんですが、とにかく、夏はものすごく暑い。エアコンをかけっぱなしだけど、電気代も水道代も自腹です。冬になると結露がすごい。畳がカビてしまうんです。町に訴えても仮設は県の持ち物だから。4年以上経って、ようやく交換してもらえます。仮設にもねずみが出ます。ゴキブリもいるね」
アパート暮らしすら経験がない猪狩さんにとって、仮設生活は戸惑いの連続だった。