GHQに対峙し、日本の矜恃を守った男として知られる白洲次郎。その行動とメッセージは、占領下であらゆる権限を奪われていた官僚たちを勇気づけた。彼に関する評伝がある作家・北康利氏が綴る。
* * *
白洲次郎は1902年、兵庫県の裕福な家庭に生まれ、旧制中学卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学。戦後、吉田茂首相の側近としてGHQとの交渉窓口であった終戦連絡中央事務局次長に就任した。以後、貿易庁長官を務め、通商産業省(現経済産業省)の創設に携わり、日本国憲法制定の現場にも立ち会った。
「強風に勁草を知る」という言葉がある。強い風が吹いたときにこそ生命力の強い草の存在を知るということだ。敗戦と占領という強風にそれでも立ってファイティングポーズを取り続けたのが次郎だった。「戦争には負けたが奴隷になったわけじゃない」と、GHQが志向する日本国弱体化計画に、ときには真っ向から、ときには“寝技”を交えて対峙した。
たとえば、1946年にGHQから憲法草案を押し付けられたとき、次郎はこう反論の手紙を出している。 「マッカーサー案は、日本の固有の事情をまったく顧みない“エアウェイ”(空路)のようなものだ。それに対して彼ら(日本人)の案は、日本の狭くて曲がりくねった山道(固有の事情)をなんとかジープで走っていこうとしている」と押し付けられた憲法草案に最後の最後まで抗った。
その後、ソ連との緊張が高まり、日本がソ連の軍門に下ることを何より恐れていたアメリカは、1950年になると再軍備を日本側に求めてきた。このときも次郎は米国まで飛び、ダレス国務省顧問と会談して「いまさら手のひらを返して軍備増強しろとはよくもまあ言えますね。今度政府が国民の信頼を失ったら日本は赤化しますよ!」と啖呵を切った。
彼の頭の中には、英国での留学経験から「アメ公なんかにナメられてたまるか」という矜恃があった。
こうした働きにより、次郎はGHQの要人から「従順ならざる唯一の日本人」と評されるようになった。