敗戦後、軍が解体され外交権を失った日本は、アジア諸国の新たな動乱をただ拱手傍観している他なかった。しかし、自国の将来さえわからないそんな状況下でも、国家の枠を超え、アジア再興のために尽力した元日本軍人たちがいた。
1949年9月10日、東京・高輪の小さな旅館で、旧日本軍将校と中華民国政府の関係者らの間で、秘密の会合が持たれた。かつては敵だった蒋介石率いる国民党軍を助けるため、日本人軍事顧問団「白団(パイダン)」が結成された瞬間だった。
このとき中国大陸では、毛沢東率いる共産党と蒋介石率いる国民党の戦い(国共内戦)が続いていた。共産党軍が各地で国民党軍を破り、国民党政府が大陸喪失の危機に瀕していたときのことだった。
白団の団長には陸士三十二期で「天才」と呼ばれた富田直亮(元陸軍少将)が就いた。9月の結成から2か月後、彼は先遣隊として重慶に向かい国共内戦の戦場視察と作戦立案に当たる。しかし富田らの大陸入りから1か月も経たない12月10日には国民党政府は大陸から撤退する。以降、白団の使命は大陸での戦闘指導から、台湾死守と大陸反攻のための支援へと切り替わった。
台湾に渡った白団のメンバーは、「革命実践研究院圓山軍官訓練団」の教官となり、将校クラスの軍人に徹底した再教育を施した。「敵対していた日本人に教えを仰ぐ」ことに、当初は感情的に反発する者も少なくなかった。
なぜそれほどまでに日本の元将校らが必要とされたのか。一つには岡村寧次が自負する通り「経験と技術」があったからだ。敗戦国になったとはいえ、日本は軍事的にはるかに先進国だった。先遣隊の富田らの目に映った国民党軍の実態は、〈司令部の作戦室はきわめて貧弱で、さらに敵情の情報があまりに不十分で幼稚な内容〉というものだった。さらに、蒋介石が強調したのは日本人ならではの精神性だった。前掲書によれば、蒋介石は開校にあたっての訓示でこう述べているという。
「(日本には)努力し、苦労に耐える精神や、勤勉、倹約の生活習慣など、わが国と共通するものがある。そのため、われわれは日本人の教官を招くことにしたのだ」
「日本人教官はなんの打算もなく、中華民国を救うために台湾にきている。西洋人の作戦は豊富な物量を前提としており国情に合致せず、技術重視で精神を軽んじるのでダメである」