それでも、しばしば戦争は国家が抱え込んでいる政治的諸矛盾、経済的停滞その他の問題を一気に解決したかに見せたり、忘れさせたりする効果がある。往々にして、ジリ貧に追い込まれた国家が一発逆転を狙って、打つ博打ではある。
昨今は、むしろ市民の側が「国益」に具体的なイメージを持ち始めている。4年半前の東日本大震災以来、「国益のための復興計画」や「国益のための原発再稼働」が、「目先の損得」や「特定の人たちの利益」に過ぎないと多くの人が気付き始めた。為政者のいう「国益」の正体が見えてきたのだ。
「国益」はまるで念仏や水戸黄門の印籠のように使われており、意味が完全に空洞化した用語の一つである。政治はしばしば用語の意味をねじ曲げる。
日本語教育を指導すべき文科省からして、横文字を多用している。特に大学がそうで、「SA」(Study Abroad=留学)や「FD」(Faculty Development=大学教員の資質開発)といった横文字で溢れている。
私は勤務する大学の教授会で「SA」の意味がわからず、「SAは『Sexual Adventure』の略ですか?」と聞いて笑われたことがある。
現在、文科省は将来的に国立大学の文系学部を縮小・廃止する方針を打ち出している。為政者の唱える「国益」同様、教育の場でも短期的な利益が追求され、大学の「職業訓練校化」がますます進む。歴史や文学など人文系の教養は失われる一方だ。
日本語を疎かにする現在の教育にも、「国益」に対する市民デモ並みのプロテスト(抗議)が必要ではないか。
※SAPIO2015年11月号