巨人の高橋由伸選手兼任コーチ(40)の次期監督就任が決定した。要請段階で久保博・巨人球団社長は長嶋茂雄終身名誉監督に電話で報告し、長嶋氏から「高橋君しかいない。自分は39歳で監督になったが、高橋由伸君は40歳。今のチームは若い監督が率いて、大きな切り替わりがいるだろう。私にできることがあれば何でもサポートします」というメッセージを受け取ったことを明かした。影響力の強い長嶋氏の言葉を用いた球団の姿勢には、「外堀を埋めた」という批判も巻き起こった。
巨人の“現役引退即監督”は、長嶋氏以来となる。ミスター自身も外堀を埋められた上での“現役引退即監督”だったが、現役引退の数年前から『長嶋監督待望論』は上がっていた。ここが、由伸とは大きく異なる点だ。
V9時代の昭和40年代後半になると、川上哲治監督退任の噂は毎年のように流れ、「長嶋をプレーイング・マネジャー(選手兼任監督)に」という声が上がっていた。昭和45年に村山実(阪神)、野村克也(南海)という兼任監督が誕生していたこともあり、「長嶋ならできる」という気運があったのは間違いないだろう。著書『長嶋茂雄 燃えた、打った、走った!』(日本図書センター)には、克明に当時の思いが綴られている。
〈監督業、とりわけ勝つことを運命づけられた巨人の監督は、プレーイング・マネジャーではつとまらない。(中略)監督になるときは、同時に現役を引退するということである。〉(同書より。以下、〈〉内同)
そして、V9最後の年となった昭和48年、まだ阪神と優勝を争っていた10月9日の夜、川上監督は、長嶋との食事の席で、こう切り出したという。
〈「オレはことし限りやめさせてもらうぞ。あとは長嶋、キミがやるんだ」(中略)ファンは、長嶋監督の登場を待望しているんだ。しっかりがんばってくれよ。〉
川上監督は巨人に残り、長嶋のためにバックアップすることも約束した。だが、長嶋はキッパリと拒否した。
〈「監督さんのおっしゃることは、よくわかりました。でも、待ってください」〉
その後も、長嶋は〈体が続く限りバットを持ちたい〉と熱弁したという。