評論家・呉智英氏といえば、博識で鋭い論を展開することで知られるが、そんな同氏であっても言葉の誤用はあったという。一体どんな言葉をいかに誤用していたのか。呉氏が敢えて自身の過去を振り返る。
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言葉は変化する。時代によって、また、地域や年代や階層によって。古語と現代語は同じではないし、方言は土地ごとに様々だし、流行語は生まれては消えを繰り返す。そうであれば、言葉の正誤などないように思える。そう主張する人もいる。
しかし、それはあまりにも雑駁な意見だ。言葉には、雅俗の別もあるし、適不適の別もある。学術用語や専門用語などは、正しく使わなければ真当な議論もできない。論理や思想に関わる言葉は正しくなければ、内容が保証されないのだ。
と言ってみたものの、私自身、誤って使っていた言葉もある。自らの恥を公表することで言論界に警鐘を鳴らしてみようか。
まず「牽制」。
〈プーチン大統領は軍事演習を敢行してEU諸国を牽制した。〉
新聞やテレビのニュースでよく見る表現だ。しかし、これは「威嚇」であって「牽制」ではない。「牽」は「牽引」の「牽」。牛を(牛が)引くことである。従って、「牽制」は、自分の方に引きつけて相手を制することを言う。
野球でピッチャーがランナーに牽制球を投げるのは、ピッチャーが自分の方にランナーの注意を引きつけて動きを制するのだから、これは正用である。野球解説者の方が政治解説者より正しい言葉を使っているのも、なんだかなぁである。
私は、次のように間違って使っていた。
〈三権分立は立法・行政・司法が相互に牽制し合う制度である。〉
ここは「相互に掣肘」か「相互に監視」が正しい。それでもあえて言い訳すれば、三権がそれぞれ自分の方に注意を向けさせていると取れば、なんとか意味は通らないでもない。
しかし、言い訳できない誤用もしていた。「治外法権」である。