【著者に訊け】柿沼由彦氏/『心臓の力 休めない臓器はなぜ「それ」を宿したのか』/講談社ブルーバックス/本体900円+税
最近のメディアに登場する研究というと、心臓に関する研究よりもむしろ、脳科学研究のほうが、多い印象があるかもしれない。が、日本医科大学大学院教授・柿沼由彦氏の初著書『心臓の力』の冒頭にこうある。
〈およそ研究に携わる者が忘れてはならない言葉の一つに「あたりまえの再定義」というものがある〉
〈真偽が定かでないことに対しては、研究者なら誰しもさまざまな可能性を考える。だが、いったんあたりまえだと思い込んでしまうと「そう信じられてきたから」「そう言われてきたから」と思考停止して、その真偽を疑うことができなくなってしまうのである〉
この一文を読んでグッときた人は本書のよき読者となること請け合いだ。
本書では1日10万回、拍動を続けてなお〈過労死〉することなく、〈活性酸素〉から身を守る自衛システムまで持つ心臓の謎をわかりやすく解説。先に柿沼氏らが世界に先駆けて発見した心筋細胞のある画期的機能についても詳しく紹介され、心臓という臓器の面白さや位置づけを改めて再定義したくなる良書である。
「私が医大生の頃は、心機能の低下には〈強心薬〉で収縮能力を高める治療研究が主流でした。ただこれだと心臓の仕事量が増え、結果的に死を早めることにもなった。
1990年代に、交感神経由来の神経伝達物質〈ノルアドレナリン〉を抑制する薬が、長期的に見れば逆に心機能のさらなる低下を抑制することがわかり、ここで亢進より抑制に潮目が変わるんですが、なぜそうなるのかというメカニズムについては、諸説ありますがやはりブラックボックスとして放置されてきたんです。
一方、同じ自律神経でも副交感神経の終末から分泌されるのが、本書の主役でもある〈アセチルコリン〉です。交感神経はアクセル、副交感神経はブレーキに譬(たと)えられますが、心臓が過労死しないのもアセチルコリンの働きが大きいと考えていい」
問題は、〈迷走神経〉とも呼ばれるほど全臓器に亘る副交感神経終末の分布が、心臓では交感神経に比べて極端に少ない〈アンバランス〉さだった。この不均衡は本来なら心臓を活性酸素の毒性に曝しかねないが、実際は交感神経の支配下でなお心臓はアセチルコリンに守られている。この謎を合理的に推理すれば、〈心筋細胞がみずからアセチルコリンを産出している〉と考えるしかなかったという。
「それは〈突拍子もない空想〉と笑われかねない仮説でした。実はアセチルコリンは人類が20世紀前半に初めて発見した神経伝達物質で、神経伝達物質=神経由来という固定観念が、心筋細胞によるアセチルコリン産出の可能性から目を背けさせた面もあると私は思う」