政権与党として存在感を示す公明党には、もう一つの顔がある。それが日本政府と中国共産党とのパイプ役だ。ある創価学会幹部が「日中国交正常化交渉は、池田大作名誉会長のご尽力によってなされたもの」と語るほどだ。
宗教ジャーナリストの小川寛大氏が、公明党の集票母体・創価学会が繰り広げる宗教外交に迫る。(文中一部敬称略)
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池田大作はすでに1968年、「日中国交正常化提言」というものを発表していた。同年の9月8日、創価学会学生部の総会で、池田はこう言い放った。
「世界的な視野に立ってアジアの繁栄と世界の平和のため、その最も重要なかなめとして中国との国交正常化、中国の国連参加、貿易促進に全力を傾注していくべきである」
公明党もこの池田の“宗教平和外交構想”を実現化するため、動き始めていた。1972年7月23日、公明党委員長・竹入義勝は東京・目白の田中角栄邸を訪問。竹入はその翌々日から中国を訪問することになっており、それに際して田中の親書を携行できないかと考えていたのである。
しかし田中は、前述の自民党の内部事情などもあり、「いま日中に手をつければクビが飛ぶ」と拒否した。
こうして竹入は、いわば“手ぶら”で訪中するのだが、待っていたのは中国側の意外な厚遇だった。当時の首相・周恩来が直々に竹入と会談。国交正常化のための中国側の条件を詳細に伝えてきたのである。
周は日本に台湾との関係清算は求めたが、そのほかの懸案事項、たとえば日米安保体制や尖閣諸島の領有権などに深くこだわる気はないと明言。特に日中戦争の戦時賠償金を求めるつもりはないと言い切ったことは竹入に大きな衝撃を与えた。
当時、日中国交正常化交渉となると中国側は巨額の戦時賠償金を求めてくるだろうと、日本の政界関係者は予想していたからである。
帰国直後の8月4日、竹入は周恩来との会談内容について記したメモを、田中のいる首相官邸に持参。居合わせた外相・大平正芳は興奮した様子で「これ、頂戴します」と言ってポケットに入れ、外務省へ飛んで行った。翌日に詳細な会談記録を渡しに来た竹入に、田中はこう言った。
「このやりとりは間違いないな。お前は日本人だな」
「正真正銘の日本人だ」
「わかった。中国へ行く」