冷戦下にあった1960年代初頭、国防上の観点からも経済面からも、日韓国交正常化は急務だった。だが植民地時代の歴史認識や竹島問題など日韓両国には問題が山積み。さらには国家の利害を超えた国民感情の対立もあった。果たして、昭和の名外相・椎名悦三郎はどうやって難関を突破したか。
ぶっきらぼうで寡黙。しかし、時折思いついたように発せられた一言は、敵味方問わず温かい笑いを誘う。ものぐさ椎名。1965年、日韓国交正常化を成し遂げた外相・椎名悦三郎は、そう称される。
日韓交渉は1957年成立の岸信介内閣によって本格化する。紛糾した戦後賠償も、1962年、大平正芳外相と金鍾泌中央情報部長官の間で無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力1億ドルで大筋合意に達した。
1961年の軍事クーデターによって大統領の座についた朴正煕大統領は、日本の後ろ盾を得て、経済発展を遂げたい。あとは条約を結ぶだけ。だがゴールは見えても先は長い。
韓国では「対日屈辱外交」を叫ぶ学生や野党の鼻息が荒い。日本でも「朴政権は米国の傀儡」と見る左翼陣営から反対の声が絶えない。
そんな折に外相に就任したのが椎名だ。当初、外交畑を歩んでいなかった椎名は入閣を固辞。池田勇人総理の強い要請によって外相就任を決める。記者会見で抱負を問われて、椎名は思わず本音を洩らした(「サンデー毎日」1994年2月13日号)。
「初めてで、わかりません」
池田は、椎名の経験ではなく、「人」をかった。縺れた日韓感情をほぐすには、明晰な頭脳や雄弁さは必要ない。1964年11月に成立した佐藤栄作内閣でも椎名は留任した。
翌1965年2月17日、遂に椎名は訪韓する。日韓基本条約の仮調印という特命を負った。
厳戒態勢のなか金浦空港に降り立つ。冬空の下、事前に用意していた声明を発表した。
「両国間の永い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾であり、深く反省するものであります」
この声明はその場で翻訳され、韓国中に伝播していった。当時、椎名の交渉相手だった外務部長官・李東元は1981年、椎名の三回忌のスピーチで当時を振り返っている(「新潮45」1992年11月号)。
「僕が新聞記者から聞いたところによれば、椎名大臣は『深く反省する』という気持を文言に入れてもいいとの考えだったが、官僚たちが反対、佐藤総理も『そんなにまでして行く必要があるのか』と(中略)。ところが椎名さんは大物だから自分で判断された(中略)。しかも椎名先生の落着いた、とつとつとしたステートメントには先生の誠実さが溢れていましてね。韓国民の感情はすぐ納まったんです」
続けて同夜のレセプションでは韓国マスコミの心も掴む。椎名訪韓をトップに伝えた韓国紙夕刊には、野党側のデモの模様も伝えていた。それを見ながら、「反対デモの先頭に、なんでオレがいるんだよ」とおどけた。野党リーダーである尹ボ善前大統領と顔がそっくりだったのだ。場内に笑いの渦が起こった。