1945年9月2日、東京湾に停泊するミズーリ艦上。シルクハットにステッキ姿で連合国の降伏文書に調印した男こそ、明治以降で最も偉大な外交官のひとり、重光葵(まもる)その人でした。
漢学者を父に持つ重光は少年時代、井戸の水で身を清めて教育勅語を朗読する毎日を送り、外務省入省後はドイツ、英国、米国、中国、ソ連など各国に赴任し外交官として幅広い教養を習得しました。
惨劇に見舞われたのは1932年に上海で行なわれた天長節記念式典の席上でした。駐華公使として出席した重光は朝鮮人の独立運動家が投げた爆弾で右脚を切断する大怪我を負います。
その瞬間、君が代を斉唱中だった重光は爆弾が投げ込まれたことを知りつつ、「国歌斉唱中に動くのは不敬だ」と微動だにしませんでした。「大御心を体した外交官」と呼ばれる由縁です。
爆弾事件以降、重光は義足をつけて「隻脚の外交官」として活躍します。三国同盟や日米開戦には反対でしたが、意に反して戦端が開かれると傍観者の座に甘んじず、「戦時外交とは勝つための外交だ」として最善を尽くしました。
駐華大使時代の1942年には「対支新政策」を打ち出し、戦争に勝つため日本と中国の関係を対等にする政策を提唱しています。
東條内閣で外相となった重光の重要な功績が1943年の「大東亜共同宣言」の採択でした。
当時、ルーズベルトとチャーチルが署名した「大西洋憲章」(1941年)は人種平等を謳い、民族自決の原則を掲げながら、植民地の有色人種には適用されませんでした。
人種平等を目指した重光は「敵側の弱点の重大なるものはアジアに対する差別概念である」として、「アジアの解放」という理念を日本の戦争目的に掲げたのです。