どんな大物だろうと天才だろうと、人生の中では思い悩み苦しむことがあった。そんな時に光を照らし道を示してくれた恩師の思い出は、今も色鮮やかに心に刻まれている。歌手の美川憲一(69)が、そんな恩師たちへ感謝の言葉を語る。
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歌手にとっての恩師とは、作詞家や作曲家の先生であることが多いの。例えば私の頃でいえば、星野哲郎先生や船村徹先生の門下生を名乗る歌手が多かったわね。ただ私は少し違った。作曲家の古賀政男先生の指導を受けていて、古賀先生から「(門下生と)名乗っていいよ」と許可もいただいていたんだけど、名乗らなかったの。
日本コロムビアから分離独立したクラウンレコードにスカウトされてデビューした背景もあり、(日本コロムビア専属の)先生の力を借りずに歌の世界で勝負したかったのが理由ね。
その後、120万枚の大ヒットになった『柳ヶ瀬ブルース』に出会えたんだけど、作詞・作曲をした宇佐英雄さんは柳ヶ瀬で流しをしていたので師弟関係にはならなかった。船村先生や星野先生に可愛いがられていた北島三郎さんや水前寺清子さんが、正直羨ましいと思ったこともあったわよ。
でもね、その『柳ヶ瀬ブルース』が私を恩師と引き合わせてくれた。「ブルースの女王」と呼ばれていた淡谷のり子さんとブルースつながりで対談したの。それをきっかけに、色々と目をかけてくれるようになったわ。
対談で40歳も離れた大先輩の前で、まったく動じることがない新人歌手に興味を持ったんですって。私も淡谷さんのことを母のように慕うようになったわ。
色んなことを教えてもらったけど、一番身についたのは“歯に衣着せぬ物言い”かしらね。
デビュー当時の私は「しゃべらない」「動かない」「笑わない」の「三ない歌手」といわれていて物静かだった。直立不動で歌っていた東海林太郎さんから「僕の親戚みたいだね」と声を掛けられたことがあるぐらいよ(笑い)。そんな歌手が今では「芸能界の御意見番」とまでいわれるようになったんですからね。