人生には忘れることのできない存在が必ずいる。今の自分を作ってくれた恩師の姿は、温かな記憶とともに甦る。コメディアンの大村崑氏(84)が、二人の恩師について語る。
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恩師と呼べる人は2人いますね。私を世に出してくれた大久保怜さんと、テレビ草創期に脚本家として活躍された花登筺(はなとこばこ)さんです。
大久保さんは関西を中心に演芸や歌謡番組で活躍された名司会者。私は大久保さんの一番弟子として、歌謡ショーの司会を勉強させてもらいました。
司会の仕事は面白かったのですが、反面ジレンマもありました。司会者は歌手より目立ってはいけない。私は大好きだった喜劇の役者になりたい思いが強くて、司会の勉強を5年させてもらった後、大久保さんの紹介で大阪・梅田の映画館「北野劇場」の専属コメディアンとして喜劇の舞台に立つことになりました。その翌年に、テレビ放送が始まりました。花登さんとのご縁はここからです。
当時、ストリップ劇場の幕間コントの台本を書いていた花登さんが、芦屋雁之助や私たちを集めて『やりくりアパート』(大阪テレビ→朝日放送)の台本を書くことになった。ずれ落ちたロイド眼鏡をかけて出演した番組内のミゼット(三輪自動車)の生CMが大ヒット。私は一躍人気者になることができました。
続く『番頭はんと丁稚どん』(毎日放送)での、ちょっとオツムの弱い“丁稚の崑松”役がまたまた大ヒット。今では放送コードに引っ掛かりそうなキャラですが、当時はそういった子供があちこちにいて、「アホいうもんがアホや」と逞しく生きていた時代でした。近所にこんな子供がいたと話をすると、それが次の回で登場していた。身近な話を台本にする天才でしたね。