【著者に訊け】長谷川康夫氏/『つかこうへい正伝 1968-1982』/新潮社/3000円+税
本人でも、遺族でもない第三者が、「正伝」を謳える根拠は何か。それは著者・長谷川康夫氏が、劇団草創期のつかこうへいと、長く日常を共にしていたからだ。
「僕というより僕ら劇団員が、ですね。当時はホント、毎日みんなで一緒にいすぎて、逆に印象にないくらいそれが日常だった。特に平田(満)なんて、一時期、六畳一間につかさんと同居しながら、ほとんど何も憶えてないんだから(笑い)」
表題にはつかが大学に入学した1968年から、劇団つかこうへい事務所の解散公演『蒲田行進曲』をもって皆が散り散りになる1982年まで、現在脚本家として活躍する著者が役者としてつかに接した期間が律儀にも付記される。ただでさえ毀誉褒貶に彩られた対象を、安易な憶測や感傷によって上げも下げもしたくないという誠意もあろうが、何より彼らにとってはその時期のつかこそが、正しいつかこうへいなのだ。
2010年7月12日未明。突如唸り出した携帯電話に長谷川氏は嫌な予感を覚える。つかが肺癌を公表し、自分からは電話できずにいたさなかのことだ。〈連絡してくるのは一方的につかさんで、僕はただ待っているだけだった。そして何か指示されれば無条件で受け入れてきた。それがどれだけ理不尽な要求であっても〉
「相当わかりにくい関係ですよね。師匠と弟子というわけでもないし、つかさんの駒というのとも違う。僕らはつかさんに期待される風間杜夫や平田満や石丸謙二郎や長谷川康夫を演じていたし、つかさんはつかさんで僕らの前では完全に銀ちゃんなんです。その関係をお互いに楽しんでもいたし、誰が誰にどう思われるか、もっと言えばどう思われたいかが、つかドラマの核心でもありました」
その外連味(けれんみ)の一例が1981年刊行のエッセイ巻末に載る「自作年譜」だ。つかこと本名・金原峰雄は昭和23年、戦前に韓国から日本に渡り、鉄鋼業やホテル業を営んだ金原家の次男として福岡県嘉穂郡嘉穂町牛隈に誕生。と、さすがにこれは事実らしいが、実はこの年譜自体、当時つかの執筆を手伝った長谷川氏らが〈つかの“口立て”を受け、でっち上げたもの〉というから驚く。
「口立てというのは、例えばつかさんが口にした台詞に僕らが反応することで、全く違う展開が生まれたり、〈音〉をやり取りしながら芝居を作っていくんですね。つまり僕らはつか脳を構成する細胞で、たとえホラ話でも面白い方を取って煙に巻くのが、つか流でした」
そのつかが珍しく自身の作劇を分析した文章が残っている。慶大文学部進学後、彼は『三田詩人』で初めてつか・こうへいを名乗り、劇団「仮面舞台」を結成するが、その公演パンフレットにこう書くのだ。
〈煙草屋で八十円出す。煙草屋のおばさんはハイライト一つだけ出す。そこには何もコミュニケートは無い訳ですよ〉〈現代人にとって一番恐ろしいのは無視される事であり、無視された時点で、一万円札を持って一日に二、三度ハイライト一ケづつ買いに行くような行動に出る〉〈僕の演劇の一つのパターンはその奇妙な行動?に出た時の寂しさを裏がえしにすることです〉
「僕らには他者に意識されて初めて存在を確認できるというその主題がよくわかるし、それが例えば国籍の問題と関係あるかというと、本人が特に気にするそぶりは見せなかった以上、関係ないんですね。むしろ直木賞を逃して何日も引きこもったかと思うと受賞したらしたで大はしゃぎしたり、極端に寂しがり屋で人恋しい人だったんじゃないかな。
つかさんは僕らがいつも自分抜きで楽しく飲んでるのも薄々察していたらしく、僕らがよく行く店に珍しく顔を出した時なんか、いきなりテーブルを蹴飛ばして、何も言わずに帰っちゃった。本当は自分も仲間に入りたかったのかなって、今からでも謝りたい気分です」