NHK大河ドラマ『真田丸』において、独特の存在感を放っているのが藤岡弘、演じる徳川家臣・本多忠勝である。「徳川四天王」の一角として、最強の武将と称される彼の史実を紐解くと、豪快な中にも意外な一面が見えてくる。
忠勝は天文17年(1548年)、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の13歳で初陣を飾った。
その後、元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」にも参戦し、家康の本陣に迫りくる朝倉軍に対し単騎駆けで対抗、五尺三寸(約175cm)もの太刀「太郎太刀」を持つ真柄直隆と一騎打ちを行ない、その名を馳せた。
その後、「一言坂の戦い」で武田軍をも感服させ、「小牧・長久手の戦い」では敵方の豊臣軍を前に単騎で乗り入れたうえ、悠々と馬の口を洗うなどの豪胆な行動をとったため、秀吉から「東国一の勇士」との称賛を受けた。
天正18年(1590年)、家康が関東に移るのと同時に上総夷隅郡大多喜(千葉県大多喜町)に10万石を与えられ、上総大多喜藩初代藩主に。「関ヶ原の戦い」では家康本軍に従軍し、前哨戦ともいえる岐阜城攻めなどに参戦、本戦でも武功が認められ、伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石が与えられる。
だがその後の天下泰平の世において、家康の側近として重用されたのは政治に長けた者が主となり、忠勝のような「武闘派」は次第に追いやられ、晩年は不遇だったとされる。
ある日、小刀で彫りものをしていた際に、手元が狂って左手にかすり傷を負う。50数回戦って一度もケガをしていなかった忠勝が死期を悟った瞬間とされ、慶長15年(1610年)、63歳で没した。