ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、昭和51年6月26日、モハメド・アリと猪木が激突した世紀の一戦をお伝えする。
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アントニオ猪木は、この“格闘技世界一決定戦”をなにがなんでも実現させなければならないものと考え、──モハメド・アリ自身というよりも──アリ陣営は「いつでもやめることができる」ととらえていた。
それが真剣勝負であっても、アリ陣営が“想定”していたようなアトラクションであったとしても、試合を行なうには、まずルールを決めなければならない。
ルールをつくり、おたがいがそれに同意することで、やっていいことと、やってはいけないことが決まる。基本的に、ルールはそれを守るためにあるもので、破るためにあるものではない。
とにかく試合を成立させなければならないのが猪木陣営だから、ルールは必然的にアリにとって有利な条件ばかりが適用された。まずニューヨークでの調印式から3日後の3月28日、「3分15ラウンド、1分のインターバル」というボクシング式のルールがアメリカの新聞に掲載された。試合のちょうど1か月前、5月26日に明らかにされた“公式ルール”では「頭または肩によるバッティング」が反則とされた。
ボクシング側からすると通常のルールと変わらないが、プロレス側に立ってみると、このルールによって(頭突きだけでなく)レスリング・スタイルのタックル、つまり相手の脚、懐に飛び込んでいく行為そのものが禁止されたことになる。
試合の3日前、6月23日にマスコミ向けに発表された“最終ルール”では、大切なポイントだけを整理すると、「ヒジ、ヒザによる打撃」「首の後ろ、腎臓、ノドへの攻撃」「手のひらで打つこと以外、プロレスで通常使われるすべてのチョップ技」「ヒザをついたり、しゃがんだりした状態での足の甲を使った足払い以外、プロレスで通常使われるすべてのキック攻撃」が反則となっていた。
簡単にいえば、アリ陣営からの強硬な要求により、想定される限りのプロレス的な動きは、ルールによって完全に封じ込められた。そして、こういったルールの詳細は当日、会場の日本武道館で販売されたパンフレットには載っていなかったし、試合前にも場内アナウンスによるルール説明はなかった。