震災を忘れ去ったかのような喧騒と、遅々として真相解明が進まない目の前の現実は、彼の目にどう映っているのだろうか──。2011年3月11日の津波で、全校児童108人のうち74人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校。只野哲也さん(16才)はその生存者だ。悲しみの癒えぬ5年の歳月を、長く大川小について取材を続けるジャーナリストの加藤順子さんと池上正樹さんがリポートする。(撮影:加藤順子)
【集中連載第1回/全4回】
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少年は、父親の背丈を抜いて青年になっていた。車を降り、柔道で鍛えたがっしりとした肩に三脚の付いたビデオカメラを担ぎ、打ちっ放しのコンクリートにレンガ仕立ての瀟洒な校舎に向かって歩き出す。震災5年を前に取材にやって来たテレビ局のクルーと一緒にいると、AD(アシスタントディレクター)と見間違うほどだ。
只野哲也さん、16才。5年前の3月11日、宮城県石巻市立大川小学校の5年生だった哲也さんは、先生や友達と校庭から移動を始めた矢先に、津波に襲われ、偶然にも生還した。大川小の被災は、児童74人、教職員10人が死亡・行方不明という、1つの学校管理下での災害としては、類を見ないものとなった。
あの日に大川小で起きたことを多くのメディアで語ってきた、坊主頭の「てっちゃん」をテレビで見たことのある人もいるだろう。
あれから5年。高校1年生になった哲也さんがビデオカメラを向けたのは、震災まで過ごした思い出の学び舎だ。体育館が丸ごと流失し、ねじ曲がって横倒しになった渡り廊下や、壁が抜けて梁がむき出しになったままの教室は、津波の水圧の恐ろしさを克明に物語る。
「ここに来ることが、勇気のいるときも正直ありました。やっぱりあの日のことを思い出すし…。でも、母校だし、みんながいた場所なので、来ると気持ちをリセットできる場所でもあるんです」
そんな話を聞いていると、ふと震災から2年の2013年3月11日のことを思い出す。この日、校舎を訪れた哲也さんは突然、自分のいた5年生の教室と、学校にいて津波の犠牲になった妹の3年生の教室に入っていった。その理由を、こう説明した。
「みんなに“元気にしてますか?”って、語りかけるんです。校舎を壊すかどうかの議論が起きているので、校舎が残るように頑張るよって、みんなに約束しました」
地震の起きた午後2時46分が近づくと、哲也さんは校舎に入って、妹や友人たちに「おれって、間違ってないよな?」と問いかけるという。