2011年3月11日の津波で、全校児童108人のうち74人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校。只野哲也さん(16才)はその生存者だ。悲しみの癒えぬ5年の歳月を、長く大川小について取材を続けるジャーナリストの加藤順子さんと池上正樹がリポートする。(撮影:加藤順子)
【集中連載第3回/全4回】
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「家に帰ると、ふとした拍子に(母親や妹が)亡くなったことを実感してきて寂しいと思ったり。考え出すと止まらなくなるんです」(哲也さん、以下「」内同じ)
震災後、何もかも消えた故郷を出て、市街地に引っ越した。進学した中学校や高校は大川小とはあまりにも環境が違い、同じ市内でも震災の話をすることはなくなった。
「友達がきょうだいの話をしていると、『自分に話しが振られやしないか』とびびったり、天気の悪い日に『お母さん迎えに来るの?』と聞かれ、『ああ、おれんちも“親”が迎えに来るよ』とうまくごまかしてみたりしていますね。親がいないという本当のことを言ってもいいが、相手にとりあえず謝られたりすると傷つくので、そっとしてほしい。そんなことを通じて、少しずつ、少しずつ、家族がいないんだなって感じていますね」
田んぼのなかの自動販売機すらない地域で育っただけに、市街地で生活するなんて思ってもいなかった。
「震災後は、子供ではいられない感じもあって、こっちに来てから自分を作っている感じがするけれど、本当の自分はどっち?ってわからなくなってきているんです」
2012年8月、大川小保護者説明会で、現在の校長が「子供の記憶は変わるもの」と発言した。しかし、哲也さんの証言内容は、私たちが話を聞いてきた中ではもちろん、報道をみる限りでも、変わるどころか一貫し続けている。
「校舎を壊すのは、世界中の子供たちが見てからにしてほしい」
そう訴え続ける強い思いの源泉には、虚ろな大人社会への不信が滲む。
「自分の母校だし、友達がいた。記憶が薄れていく中であの校舎がなくなったら、ただの更地になっちゃって、思い出せることも思い出せなくなる。校舎があるからこそ、この廊下で怒られたなとか、階段で転んだなとか思い出せる。思い出すきっかけがないと、いくら頑張っても忘れちゃう。みんなが生きていた証がないとだんだん忘れられて本当の意味で死んじゃうんじゃないか」