ふらりと家を出て、行き交う人々の中へ消えていき、最寄駅から電車に乗り、隣の駅で降りる。どこへ向かっていたのか、人の流れに逆らって改札とは逆方向へ歩いていき、鍵のかかっていなかったホーム端のフェンス扉を開き、8段の階段を下りて線路内へ。そして、駅を通過する快速列車にひかれてしまった──。
事故が起きたのは、2007年12月。JR東海は柴田哲夫さん(仮名・享年91)の家族に対し、監督義務を怠ったとして、振替輸送費など720万円を求める損害賠償請求を起こしていた。一審の名古屋地裁は、同居していた妻(当時85才)と横浜市に住んでいた長男の責任を認め、720万円の支払いを命じた。
二審の名古屋高裁では長男への請求は退け、妻の監督義務を認め、妻に360万円の支払いを命じていた。
しかし、遺族とJR双方が判決を不服として最高裁に上告。認知症の人を介護する家族の監督責任を巡る初めての最高裁判決として、注目を浴びていた。そして事故から8年以上が経ったこの3月1日、最高裁は、遺族の逆転勝訴を言い渡した。
「同居の夫婦だからといって直ちに監督義務者になるわけではなく、介護の実態を総合考慮して責任を判断すべきだ」として、家族にJR東海への賠償を命じた二審の名古屋高裁の判決を破棄し、請求を棄却。
遺族は代理弁護士を通じて、「大変温かい判断をしていただき、心より感謝申し上げます。父も喜んでいると思います」というメッセージを発表した。
◆介護をするほど“リスクを負う”という矛盾
裁判で争われたのは、「家族は監督義務者にあたるか」「あたるとしても、ホームの柵に鍵がかかってなかったなどJRにも過失があるので家族は免責されないのか」の2点。
予備軍も含めると、65才以上の4人に1人といわれる認知症患者。この裁判で争われたことは、現在介護している家族だけではなく、すべての日本国民に無関係とはいえない。今回の事例では、妻は当時85才で要介護1の状態、息子は長年にわたって別居していたことから、「監督可能だったとはいえない」として、JR東海の請求を退けた形になる。
弁護士などの専門家や、同じ認知症患者を家族に持つ人たちからは、かねてから「同居する妻が原則として監督責任者になるという判断は酷だ」との批判が多く、最高裁の判断には「温かい判断だ」「家族も救われる」との声が上がった。
「大企業なんだから、そこまでしなくても」「遺族に酷すぎる」などと非難する声もあったJR東海は、最高裁の判決を受けてこんなコメントを発表した。
「個々にはお気の毒な事情があることは十分に承知していますが、当社としては列車の運行に支障が生じ、振替輸送に係る費用なども発生したことから、裁判所の判断を求めたものです。今回の判決については、最高裁の判断ですので真摯に受け止めます」