ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポスト連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、平成11年3月6日に日本武道館で引退式を迎えたジャンボ鶴田に「源ちゃん(天龍源一郎)のほうが全日本を引っ張ってくれる」と言わしめた、大相撲出身プロレスラーの天龍源一郎デビューを振り返る。
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昭和25年2月2日、福井県生まれの天龍は、昭和38年12月、13歳で二所ノ関部屋(親方は元大関・佐賀ノ花=当時)に入門。昭和39年1月、初土俵。昭和48年1月場所で幕内初入幕。
昭和50年秋場所後、部屋分裂騒動“押尾川事件”に巻き込まれ、翌年の昭和51年秋場所、東前頭十三枚目の番付で8勝7敗で勝ち越したのを最後に二所ノ関親方(元関脇・金剛=当時)に廃業届を提出。相撲社会の古い慣習に翻弄されての土俵との決別だった。
天龍は、当時26歳。旧日本プロレス―東京プロレス―国際プロレスで活躍した豊登以来、22年ぶりの現役幕内力士のプロレス転向は大きなニュースとなった。
天龍は“新弟子生活”を体験せず、マゲを結ったまま、同年10月30日、同じ大相撲出身の桜田一男(のちのケンドー・ナガサキ)とともに修行地のテキサス州アマリロに向け出発。現地でドリー&テリーのザ・ファンクスからレスリングの手ほどきを受け、翌11月、実戦デビュー。
これは、鶴田がプロレス入りしたときとまったく同じ育成プランで、馬場はあくまでも天龍を“即戦力”としてプロデュースした。全日本プロレスのタッグ部門での馬場&鶴田の師弟コンビのライバルは、大木金太郎&キム・ドクの“韓国師弟コンビ”だった。大木は、前年の馬場との“因縁の対決”(昭和50年10月30日=東京・蔵前国技館)以後、フリーの立場で全日本プロレスに定着。
長期のアメリカ遠征から約4年ぶりに帰国した大木の“弟子”キム・ドク(戸口正徳=元日本プロレス)は、日本人サイドではなく、外国人サイドからのシリーズ出場を選択した。