今日、ヤクザは暴力を背景にした反社会的集団とみなされている。しかし、かつては体制側が権力を移譲し、その“力”を利用した歴史があった。ヤクザの親分を父に持つ作家・宮崎学氏が日本のヤクザの歴史について解説する。
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現在では強固な組織的な基盤を持っているように見えるヤクザだが、歴史的に見ればそれはごく最近に限ってのこと。そもそもヤクザは社会に適合できない人たちが生きんがために自然発生的に集まり、その時代背景に合った形で集団を形成したものに過ぎない。昔から継承され、万世一系で今に至ったというわけでは、もちろんない。
歴史上、ヤクザの源流と考えられるのは、室町時代から戦国末期に生まれたカブキ者である。カブキ者は、下剋上の時代に成り上がろうとした下級武士群のリーダーだった。彼らは数十人の足軽を率いて、雇い主の武将と契約交渉をしたり、集団内のトラブルの調整役を担ったりした。
江戸時代になって戦乱がなくなると、幕府によって取り締まられ、「市井のならず者」に転落を余儀なくされていく。彼らカブキ者が一掃されて30~40年経つと、旗本奴や町奴という集団が登場する。
旗本奴はカブキ者の堕落形態で体制側の無頼集団。それに対抗するカウンターパワーとして生まれたのが町奴である。
町奴の指導者は失業武士が担っており、元になった集団は人足(力仕事に従事する労働者)の口入業に従事していた。いわば労働者派遣業の近世版といったところか。徳川幕府による大名の廃絶や減封という“行政改革”、泰平の世になったことによる藩の“リストラ”によって失業した武士の受け皿になったのが町奴であった。
彼らは支配階級に対する反抗を旨とし、暴力装置を独占していた武士を模倣して、武士の実力が直接及ばないような領域、すなわち町人自治の領域を担った。しかし、これも幕府による度重なる「奴狩り」に遭って衰退、解体されてしまう。
そのあと登場したのが、町火消しである。江戸中期以降の火消しは、武家火消しと町火消しに分かれており、前者が支配階級の特権意識を持った集団だったのに対し、後者は市民兵的自衛意識を持っていた。町火消しは町奴の精神を受け継ぎながら、武家火消しと対抗したのだ。