今でこそ、芸能人と暴力団のかかわりはタブー視されているが、戦後のある時期まで両者は分かち難いほど近い関係だった。昭和の歌姫と全国最大の暴力団組長の交流秘話を、実録小説『神戸芸能社』の著者、山平重樹氏が紐解く。
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戦後日本を代表する歌手、女優として、今や伝説となった美空ひばり。ひばりは1937年生まれだが、9歳からプロ歌手として活動。「天才少女歌手」と呼ばれ、戦後の焼け跡の中で日本人を励まし続けた。
そんなひばりの“出発点”に、これまた戦後日本を代表するヤクザが関係していたことを知る人は、現在どれほどいるだろうか。そのヤクザとはほかでもない、三代目山口組組長・田岡一雄である。
芸能興行とヤクザの関係は、歴史的にも深い。それどころか興行は、そもそもヤクザの伝統的な稼業ですらあった。山口組にも「山口組興行部」と呼ばれる組織が昔からあり、主に神戸での浪曲興行などを取り仕切っていた。
1948年12月、この山口組興行部が影響力を持つ神戸松竹劇場へ出演するため、横浜国際劇場支配人の福島通人に連れられて、母・加藤喜美枝と神戸の田岡邸へ挨拶に訪れたのが、ひばりと田岡の出会いだったとされる。ひばりは当時11歳。しかし田岡に対してまったく物怖じせず挨拶するその姿に、田岡は尋常ならざるオーラと、無限の可能性を感じ取る。
「ひばりちゃん、このおじちゃんに歌ってくれるか」
「はい。でもおじちゃん、どんな歌を聴きたいですか」
ひばりはどこまでも屈託なく田岡に応じ、藤山一郎が戦前に歌って大ヒットした『影を慕いて』を見事な歌唱力で歌った。ひばりの才能に感服した田岡は、「彼女を生涯にわたって守ってやろう」と固く誓う。そして自身が率いる山口組興行部、1957年に「神戸芸能社」と改名するその“芸能プロダクション”に、ひばりを誘う。
神戸芸能社にはひばりのほか、田端義夫や高田浩吉、川田晴久など、戦後の大スターらが多数所属。しかし田岡とひばりの絆は他に類を見ないほど固く、2人の関係は“連合軍”と称されるほどだった。