昭和のはじめ頃のヤクザは、平時においては賭博開帳、あるいは炭鉱や港湾、土木などの労働現場で働き、戦時になれば親分自ら子分を引き連れ戦地に赴くこともあった。人の嫌がる危険な仕事でも、すすんで引き受けたという。
ヤクザが作った「日本戦後史」を、ジャーナリストの猪野健治氏が解説する。
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〈○月○○日、「さあ野郞ども出掛けるぞ」の聲に○○○名の乾分(編注:子分)はハネ起きた。そして御用船○○丸は義侠の親分乾分を乘せて○○日の朝、戰火の○○に上陸したのであつた〉
これは日中戦争の最中、1937年11月発行の『文藝春秋』臨時増刊に掲載された「戰ひの上海から」の一節だ。「○」で伏せ字になっているのは、軍事機密にかかわる部分と思われ、戦時の報道規制ぶりが窺える。
ここで子分を従えているのは、長崎・宮久一家の親分、宮崎久次郎。記事には、海軍の要請を受け、子分数百人を引き連れ上海に乗り込み、命がけで飛行場を建設するまでの顛末が描かれている。
当時の上海は軍事的緊張の極みにあり、敵弾が降り注ぐなかで工事が強行された。途中、再三にわたって爆撃を受け〈一時は、賽の河原の石積みの樣に甲斐のない仕事の樣であつた〉という。
同年8月末に飛行場は完成。艦隊司令部の長谷川長官は宮崎久次郎を旗艦出雲に招き、〈親しく感謝と慰問〉の言葉を伝えた。さらに、この話はヤクザの美談として「誉れの飛行場」と題された浪曲になり、海軍省提供でテイチクからレコードまで発売された。
この一件は『文藝春秋』に載ったことで広く知られたが、ヤクザが戦場に乗り込んで軍部の仕事を請け負うことは、それ以前から行われていた。
ヤクザと軍部の関わりが始まったのは日露戦争からで、激戦地となった「203高地」へ武器弾薬や食料を運ぶ兵站を担ったのが最初とされる。
日露戦争では、京都の砂子川一家の西村伊三郎が伏見の第一六師団から要請を受け、幹部・子分50名を引き連れて従軍し、戦場で軍夫として弾薬運びなどに従事、活躍したことが文献に残されている。