パリのことや夫のことが好きでたまらない。それらを決して褒めるばかりではない彼女の口ぶりに、一層愛おしさが伝わってきた。このほど初めての単著となる『それでも暮らし続けたいパリ』(主婦と生活社)を出版した翻訳家の松本百合子さんは、夫がオーナーシェフを務めるレストランでは「マダム・ブシェ」と呼ばれる。ここまでの人生は決して平坦ではなく、だからこそ、そこから得られた哲学は実に豊かで、輝いている。
上智大学でフランス語を学んだ。サガンの小説に憧れ、ホームステイも経験した。祖父の仕事の関係で父親はフランスで生まれたという、ふしぎな縁も感じていた。彼女の人生に大きな影響を与えたのは、あのユーミンである。
大学生のとき、自宅の隣の隣に松任谷夫妻が引っ越してきた。ユーミンと親しくなり、その知り合いの編集者に頼まれて雑誌の読者モデルをやるようになる。その人から声をかけられ、ニューカレドニアに行くことになった。
「もともと書くことが好きで『記事も書いてみれば?』と言われ、その旅の紀行文を書いてみたら、ちょっと直されたぐらいで、そのまま載ったんです。すごく感激して『こんなに楽しい仕事があるんだ』って思いました」
卒業後は、大手商社に就職したが、あまり肌が合わなかったという。知り合いの編集者の仕事を徐々に手伝うようになり、商社は退職した。26才で結婚した後も、女優のインタビューや、雑誌の海外取材などで活躍していた。
「30代に入って離婚を考えるようになり、自分にできることは何かと考えたらフランス語しかなかった。NOVAとベルリッツと日仏学院をかけもちして、半狂乱のように勉強を始めました」
ちょうどその頃、仕事をしていた女性誌の編集者に、「知人が、女性誌の記事のような柔らかい日本語が書ける翻訳家を探している」と言われた。翻訳の経験はなかったが、会いに行って、渡されたのが聴覚障害者の女優、エマニュエル・ラボリの『かもめの叫び』の原書だった。
「すらすら読めたわけじゃないけど、すごく面白かった。笑ったし、泣いたし、どうしても自分で訳したい、と思ってしまったんです」
語学学校のフランス人教師をつかまえてはわからない箇所を問い詰め、不眠不休で翻訳にあたって、たった2か月半で完成させた。1995年、刊行に合わせて著者が来日、『かもめの叫び』はベストセラーになり、松本さんもその翻訳家として認知されるようになる。