会社と結婚した鎭子にとって社員が「家族」だった。『暮しの手帖』の元編集長・尾形道夫氏がいう。
「母にハンドバッグを贈りたいと鎭子さんに話したら、“これから三越に行く用事があるから一緒に行きましょう”と言って、バッグを選んでくれました。そんな気さくな人ですから、会社では誰も鎭子さんを社長扱いしませんでしたね(笑い)」
1978年、心筋梗塞で花森はこの世を去る。
「皮肉なことですが、花森さんが亡くなって数年が、いちばん会社がまとまった時期でした。“花森がいなくなって『暮しの手帖』はもうダメだ”と散々言われて……。鎭子さんを中心に全社一丸となったのを覚えています」(同前)
事実、花森の死後、同誌は最高部数の90万部を記録している。鎭子は2004年に社長を退任した後も毎日出社していたという。
「90歳を過ぎていたのに、精力的に雑誌作りに参加していました。若い編集部員に“売れる企画はない?”と声をかけたり、土日には自らデパートに足を運び、企画のタネを探し回っていましたよ」(前出・出版関係者)
2013年3月23日、鎭子は肺炎でその生涯を閉じた。
「晩年、鎭子さんは“私の人生も朝ドラになるわね。人が経験したことのない波乱万丈な人生だったもの”と笑っていました。その言葉通りになったから天国の本人も喜んでいると思いますよ」(前出・旧友)
彼女の一生が朝ドラでどう描かれるのか。今から楽しみで仕方がない。
※週刊ポスト2016年4月15日号